蘇軾
東坡は東林常総に参禅して真訣を得たといわれる。
渓声便是広長舌
山色豈非清浄身
夜来八万四千偈
他日如何挙似人
という東坡の偈にはまことに堂々たる禅的見解がうたわれている。東坡の詩には禅の宗旨をもるものが多く、「東坡禅喜集」という一書が刊行されている。

図54 蘇東坡像
「居士分燈録」によれば、東坡は荊南にいた玉泉承皓の機鋒触るべからざるをきき、これを抑えようとし、微服して相見をもとめた。まず承皓が東坡の姓をたずねると、「秤」と答えた。秤とは、天下の老和尚の力をはかることを意味する。しかし忽ち承皓の一喝にあい、「軾無対」という次第で、「これより益々禅宗を重んじ」たと伝えられる。当時の文人、士大夫の禅に参ずるものが多く、黄山谷は晦堂祖心に参じ、王安石は泐潭克文の分燈の居士であった。

図55 東坡画
蘇軾は、黄州にうつってから「東坡居士」と号したが、そのころの生活について、
「某、一僧舎に寓し、僧の蔬食に随う。甚だ幸なり。感恩念咎の外、灰心杜口、曽つて謁人を看ず、云うところの出入は、蓋し村寺に往きて沐浴し、また渓を尋ね、谷に沿うて魚を釣り、薬を採り、いささか自ら娯むのみ」
「心困じて万縁空しく、身安くして一牀足る。豈ただ浄穢を忘るるのみならんや。兼ねて以て栄辱を洗う。黙帰多談無く、此の理、観ずることの熟を要す」
と述べており、諸縁を離れて、禅観につとめた生活ぶりがしのばれる。
「居士伝」巻二十六に、東坡の伝があるが、母程氏が、僧の門に至ったことを夢に見、その直後に東坡を生んだという。東坡は年七、八歳にして常に僧となることを夢みたとも記されている。
東坡小さき日、書堂の前に竹柏雑花叢生し、種々の小禽が巣くうていたが、母堂は、鳥雀を危ぶませぬように子供たちを戒めた、そういう慈悲深い人であった。そのため桐花鳳という美しい仙禽も馴れ遊んだという。東坡はこの母の影響をうけたか、やさしい情感の持主であった。
幸田露伴に「蘇子瞻、米元章」という文があって、東坡の妻妾のことを語っている。妻の弗は王方の女で、十六歳で嫁し、まことに敏にして静なる伴侶であったが、二十七で先立った。東坡はその妹を娶ったが、これまた東坡五十八歳のとき亡くなった。侍妾の朝雲は十二歳のときから仕え、東坡六十一のとき三十四歳で没した。妾朝雲は晩年比丘尼義沖について仏道を学び、死に臨んで金剛経を誦して往生を遂げたという。東坡の詩句に「天女維摩総に禅を解す」とあるのはこの妾をさす。朝雲の禅心は無論東坡の影響であったろう。朝雲は一人の子をもうけたのであったが、あわれ速かにこの世を去った。ときに東坡は四十九歳、「帰り来れば懐抱空しく、老涙水をそそぐが如し」「仍ち恩愛の刄をもって、この衰えし老腸を割く」と嘆ずる。全心身を挙げて泣き哀しむ。人間東坡の心情を見る次第だ。

図56 東坡尺牘(部分)
東坡は文与可の画業を評価し、「与可畫竹時、見竹不見人、豈独不見人、嗒然遺其身、其身与竹化、無窮出精神云々」と詠じた。
この東坡の見所はまさに禅的であり、与可の描く姿はまた禅そのものといえよう。「この間にあっては、唯一つの純粋行の開展あるのみ」という前田利鎌の解釈はいかにも哲学者らしいが、その「純粋行の開展」こそ禅の働きにほかならない。文与可は「沐浴冠帯」「正座して化した」ほどの真に得道の人であった。
黄山谷は「東坡の書は学問文章の気、欝々芊々として筆墨の間に発す」といい、劉煕載はまた「傲岸磅礴」の語をもってその書を評した。鉄斎は十二月十九日生まれで、たまたま東坡と同一であることを喜び、「東坡同日生」の印を用いたという。鷹村また同日生ということで、黄村・臥竜両民から「東坡鉄斎同日生」と刻した印をおくられた。