雪舟
雪舟の絵を見ると、実に善く毛筆を使っていることが知られる。毛筆の表現性を見事に生かした用筆である。それ故に文字を書いてもそれが立派な表現となることは自然の道理であろう。春名好重は、「雪舟の書は巧妙にして優秀である。いわゆる書家ではないが、書を巧妙に書くことができたので、書家といわれてもよい」と述べている。氏はまた「図画考略記」にある「雪舟二字説」を紹介しているが、雪舟は「好んで昔賢の墨妙を集め、楚石老人の書する所の二大字を得て、以てこれを宝とし、遂に自ら雪舟と号し」たという。「楚石老人」とは元の禅僧楚石梵琦(一二九六―一三七〇)である。審美眼の高い禅者雪舟がすぐれた墨跡に着目し、いたく尊重したであろうことは想像に難くない。

図37 雪舟像

図38 「秋冬山水図」落款
雪舟は少年のころより相国寺に入り、春林周藤を師として禅を修めた。一四六七年(応仁元年)中国に渡り、天竜山景徳寺に詣でたが、甚だ厚く遇されて首座という高位を与えられた。ときにすでに四十八歳に達し、天童の人々から尊敬を受くるに足る禅的力量をそなえていたのであったろう。

図39 雪舟「山水画跋」
雪舟が中国の地で描いたという「四季山水図」(東京国立博物館蔵)には「日本禅人等揚」と款記されており、雪舟が禅者としての自覚を持していたことが知られる。
雪舟が訪ねた天童山景徳寺は、かつて宏智禅師や如浄禅師等が住山された著名な寺であり、雪舟はここで第一座におかれたことを生涯の誇りとしていたらしく、彼の作には「天童前第一座雪舟叟等揚六十有七歳筆受」とか「四明天童第一座雪舟行年七十七歳謹図之」等という款記が見られる。

図40 雪舟書翰(部分)
さて加藤周一著「政治と文学」の中に、「日本的なものの概念について」という一章があるが、著者は雪舟にふれ、「その画面は線と面であり、綿密に分析的な空間の処理であって、その限りにおいて、ただ完璧なものである。西洋では、同じようなことをセザンヌがやった。風景を面に分解し、再び構成し、絶妙な仕方で空間を処理する過程の一体どこで十五世紀の日本の画家と十九世紀末の西洋の画家との間に違いがあるだろうか云々」と述べている。氏は枯淡などという日本的なものの概念を否定し、雪舟の堅固な造型性を称賛しているのだが、その完璧ともいうべき造形能力の底に深く禅定の力が働いていると思う。あれほど禅者雪舟を標榜した彼が、自らなすその書画を禅的表現として考えぬ筈はなかろう。吉村貞司氏は次のようにいう。
雪舟は職人ではなかった。禅僧だった。五山を去っていわゆる林下に帰したとはいえ、挫折の負い目ゆえに孤独な漂泊に終ったとはいえ、その故に禅は孤高で、よりきびしくなった。禅が筆を妥協のない強いものにした。禅は雪舟の画の魂、彼自身の人格の魂であったのだ。
一九五六年、ウィーンの平和会議は、雪舟没後四百五十年を記念して、世界の代表的藝術家として表彰したという。