禅語について
たとえば「日日是好日」という語がしばしば書の題材にされるが、この語は禅者の重要な公案なのである。白隠禅師はこの公案を難透難解としている。日々好日といって、老婆がのんびり陽に当っているような内容として見ると大間違いである。
「南坊録」に茶の掛ものについて「その文句の心をうやまい、筆者道人祖師の徳を賞玩するなり」とあるが、およそ書作する場合に、揮毫する文句の心を大切にし、その語句にこめられた旨意に深く参入すべきであろう。
「日日是好日」とは雲門文偃の示した語で、碧巌録第六則に出ている。雲門が衆にむかって「十五日以前は汝に問わず、十五日以後一句をいいもち来れ」と提示した。過ぎ去ったことは問わないが、今日からどうしたらよいか……。誰もこれに答える者がなかったので、雲門みずから答を出したーー「日々是好日」と。「十五日以後」とはむしろ「たった今」とうけとるべきであろう。つまり絶対現在における無作の妙用こそ、日々好日の核心でなければなるまい。故に古人もここに語を下して「鉄鈷ぼつ跳して三台に舞う」といっている。
後に雪竇は、この雲門の垂示を讃歎して次のように詠じた。
去却一拈得七 一を去却し、七を拈得す
上下四維無等匹 上下四維等匹なし
徐行踏断流水声 徐ろに行いて踏断す流水の声
縦観写出飛禽跡 ほしいままに観て写し出す飛禽の跡
草茸々煙冪々 草じょうじょう。煙べきべき
空生巌畔花狼籍 空生巌畔花狼籍
弾指堪悲舜若多 弾指悲しむに堪えたり舜若多
莫動著 動著三十棒 動著することなかれ、動著せば三十棒
「おもむろに行いて踏断す流水の声、ほしいままに観て写し出す飛禽の跡」とは、詩的才能豊かな禅者雪竇によって表現された、日々好日の消息である。
後に円悟克勤(一〇六三ー一一三五)は、本則並びに頌に、それぞれかなり長い評唱を付した。また本則と頌の一句一句に、寸鉄人を刺す短評を加えた。このようにして本来不立文字とされる禅の世界に実に豊富な文字詩句があらわれた。以上もっぱら碧巌に関して述べたが、禅門には他にたくさんの書物があり、その中に宗旨をふまえながら且つ文学的にもすぐれた詩文が多い。これらはまた書の題材として魅力的である。
さて「日日是好日」と揮毫するとき、そこに日々好日の境涯が点検され、日々好日底の働きの有無が問われることになろう。しかし筆者が未だその境涯に遠いとしても、筆をもっての工夫参究として、禅語揮毫の意義は認められるべきものと考える。ともあれ禅語の多くは参学の徒に公案として課せられるものであるから、決して軽軽にこれをとり扱ってはならない。
題材たる語句に参入することの深浅が、書の表現に微妙にかかわり、作品の価値を支配することを切に思うものである。