転と自由

「従容録」に「水上の胡蘆、按著すればすなわち転ず」という。胡蘆はひょうたんである。ひょうたんが悠々と水に浮いている。おさえると右に左に転じて一つところにとどまらない。書の用筆も、機に応じ、即処に転動する自由な心が望まれる。上泉伊勢守は、心法、刀法、身法の自由無礙な働きを期して〝転〟(まろばし)という一道を発顕したといわれる。

「心は万境に随って転ず、転処実に能く幽」という摩拏羅尊者の偈について、南浦紹明は「如何がこれ転処と拶して方に幽の字を悟るべし」といって「転」を重視されたと伝えられる。

臨済は、境に乗じ、随処に主となって、用いんと要すれば便ち用いよといい、「遅疑」することを戒める。遅疑は転処における敗北である。

「臨済録」に、見事な転を現前する応酬が載せられている。

Aが高座に上った。Bが進み出て、禅の究極について問を発した。Aは、Bの質問を奪って逆に相手に突きつけ「サアいえ」と迫る。Bは黙したまま、Aを高座から引き下ろして、今までAのいた場所に坐り込んだ。すると、AはたちまちBのそば近く寄って「御機嫌いかが」と出た。Bは思わず擬議した。今度はAがBを座から引き下ろして、もとの席におさまりかえる。Bは何ともいわず、ただスーッと出て行ってしまった。Aもさっさと坐から下りてしまった。

ここに、主より客に転じ、客より主に転ずる実に自在な、小気味よい働きがある。一つの行為から次の行為にうつる鮮やかな転変を見ることができる。Aとは臨済であり、Bとは麻谷である。次にその本文を挙げる。

師因みに一日河府に到る。府主王常侍、師を請じて陞座(しようぞ)せしむ。時に麻谷出でて問う「大悲千手眼、那箇か是れ正眼」。師云く「大悲千手眼、那箇か是れ正眼、速かに()え、速かに道え」。麻谷師を()いて座を下らしめて、麻谷却って坐す。師近前して云く「不審」。麻谷擬議す。師また麻谷を拽いて座を下らしめ、師却って坐す。麻谷便ち出で去る。師便ち下座。

師とは臨済禅師であり、麻谷は蒲州麻谷山の第二世といわれる。千手観音は手千本、眼が千眼、そのどれが真正の眼かというのが、問いの表面の意味であるが、麻谷の旨意は、活きた観音、真実の自己はどこにいるかということであろう。これに対する臨済の応答が尋常でない。すかさず麻谷の言を奪い取ってつめよる。古人はここに着語して、「かえって鎗頭を倒まにして人を刺す」といっている。臨済は真実の自己、活きた観音を存分に働かして見せたのである。麻谷の対応もまた素晴しい。このような両者の相互転変を「賓主互換」という。白隠は「落霞と孤()と斉しく飛び、秋水長天と共に一色」という王渤の詩句を以て、この互換の見事さを形容した。大燈国師はこの一場の活劇を「雨過ぎて竹風清し」と評したという。書の表現も、このように自在に転じつつ清風をもたらす活作用でありたい。

自由な働きといえば、まず臨済の教化を扶けた傑物普化のことがうかぶ。「臨済録」勘弁によれば、普化があるとき僧堂の前で生菜を食べていた。臨済がこれを見て「まるで驢馬のようだ」というと、普化は驢馬になりきって「ヒヒーン」と鳴いて見せた。そこで臨済が「この賊」というと、普化は「賊々」といって出ていってしまった。真の禅者の働きはまことに洒脱であり、自由である。

また、普化は鈴を鳴らしながら街をゆき、「明頭来や明頭打、暗頭来や暗頭打、四方八面来や旋風打、虚空来や連架打」と唱えていたという。明頭すなわち差別でくれば差別で応じ、暗頭すなわち平等でくるものには平等で応ずる。四方八面、すなわち千差万別、変転自在の態度でくれば、つむじ風のように旋り打つ。差別平等を超えた没蹤跡の境界をもってくれば、こちらは一法も立せずつづけ打ちだ、というほどの意味である。大般若経に挙げられる、東涌西没、西涌東没、南涌北没、北涌南没、中涌辺没、辺涌中没の六種震動は、あたかも普化の妙用をさすごとくである。われわれは書作において、或は明頭打し、或は暗頭打し、ときに連架打の用筆をもってし、またときに旋風のごとく運筆する創造的大用を現前することができぬものか。それは自在な用筆の技術の上に、根源的に心的自由を得たものでなければなるまい。

臨済禅師は、「もし生死去住、脱着自由なることを得んと欲せば、即今聴法底の人を識取せよ」という。この即今聴法底の人こそ真実の自己であり、いわゆる「無位の真人」である。真の自由は無位の真人を活捉するところに得られる。臨済は、具体的個人の肉体に即して一無位の真人があり、眼にあっては見、耳にあっては聞き、鼻にあっては香をかぎ、口にあっては談論し、手にあっては執捉し、足にあっては運奔すると説く。無位の真人はまた「無依の真人」とも「無衣の真人」ともいわれる。どこにも位置づけることができない故に無位であり、何ものにも依存しないが故に無依であり、特定の衣をつけていないが故に無衣である。それは無形無相の根源的主体であり、絶対的自由者である。 筆鋒の上に無依の真人の働きを来すとき書禅一味となる。書することが無依の真人の表現となるとき、筆は自由に転動して、真に生きた書が具現するわけである。