呼応の原理

金子白夢氏は、「宗教生活は感応の生活である。我呼べば彼答えるところに宗教がある。correspondence(万物照応)のあるところに宗教があるのだ。喚即応の境地、そこに宗教がある。寒山が『敲㆑門処々有㆓人応㆒』と歌ったのがそれだ」といっている。

沢庵は「たとえば右衛門とよびかくると、おっと答える」のが不動智であり、何の用かと思案するのが煩悩であるという。間髪を容れず即応するところに、禅心の働きがあるというのである。書はまことに間、髪を容れぬ瞬時の即応を要する。

紙上に打ち出された一点或は一画は、直ちに次の点画を呼び、その点画はさきの点画に応じ一字が形成される。一字は次の一字を呼び、これに応じてしかるべき筆の動きとなり、姿形となってそのあるべき位置をしめる。一行から二行と、互いに相応じ、相照らして空間の処理が果されてゆく。書の表現はまさしく呼応の原理をふくむ。呼応の関係が破れたとき、運筆の時間に断絶を来し、空間の構成に分裂を生ずる。

無門関に「国師三喚」という公案がある。慧忠国師が侍者の耽源を呼んだ。三たび呼ばれて、耽源は三たび同様に応じた。呼ばれるたびに前後際断して「ハイ」と応えたのである。「侍者三応、光に和して吐出す」と評される。さらに「迦葉刹竿」の公案もまた禅心の呼応を内容とする。阿難が、世尊は金襴の袈裟のほかに何を伝えられたか、と問うと、迦葉は「阿難よ」と呼ぶ。阿難は思わず「ハイ」と応える。そこで「門前の刹竿を倒却著せよ」と終止符がうたれた。

論語の「里仁篇」に、孔子が曽参にむかって、吾が道は一以ってこれを貫く、というと、曽参が「唯」と答えたとある。今北洪川はこの「唯」の一字に抜山の力があるといった。「宋儒一唯を釈いて曰く『応ずるの速かにして、疑なきの謂なり』と、是は則ち是、蹉過了、山野是より先、疑を蓄うここに年あり。三十一才の時、この妙処を徹見す。始めて曽参の腕頭抜山の力あるを識得す、歓喜にたえずして飯食の味を知らざること数日。聖賢の機言まことに一語千金なり。後、門人の間に至って、すなわち只忠恕のみと答う。彼といい、此といい、一放一収、その美言うべからず。太掖の芙蓉、未央の柳、芙蓉は面の如く、柳は眉の如し。顔回没して後道統の正脈を得る者、曽参一人となす、ここに於て観るべし」と賛称しておかない。このように禅的立場から「唯」を観れば、それは石火の機であり、おっと応ずる不動智であり、耽源の示した禅心であり、呼応の真髄である。的翁老師はこの唯について「これは一見客体的立場のように見えるが、実は随処に主となって、もっとも完全な絶対主体の立場に立つものであることは、体験すればよくわかることである」と、甚だ要所に言及された。

高山岩男氏は、その著「場所的論理と呼応の原理」において次のように述べている。

主が客に呼びかけ、客が主に応え、応えることによって新に主に呼びかけ、主が客に応えるとき、そこには主客が呼応の関係に入る前には存せず、呼応関係に入って始めて見られる或る新しい事態が現われてくる。応えることによって現われたこの新しい事態は、更に新しい呼びかけとなって、新しい応えを喚起してゆく。かくて呼応は相互呼応として進んでゆくが、要するに呼応の間において或る新しきものが成立する。この意味において呼応は創造的である。

この論述はさながら書作の過程を思わしめる。書の表現はまことに相互呼応の進展である。朱指山も「上下承接あり、左右呼応ありて、打畳一片なれば、まさに善を尽し、美を尽せりとなす」という次第である。

さて書作における主客は、筆者を主とし、紙面を客として考えてもよかろう。筆者はまず一画を画して紙面に呼びかける。一画が載せられた紙面は忽然緊張をはらみ、動的状態を呈し、すでに決定した一画に応ずる空間の処理を筆者に呼びかける。一画を打ち出された紙面には新しい事態があらわれたのである。それはまた新しい呼びかけとなって、新しい応えを喚起してゆく。書の展開はこのような呼応の連続である。そして高山氏のいうように、呼はそれ自身の中に無限に呼応を映じており、応はそれ自身の中に重々に呼応を映じている。いったい呼応は一如の事態であり、すなわち呼応的同一である。この呼応的同一なくして、書の統一的世界はあり得ない。

高山氏は「呼応が連続していって、それぞれ特質的(即ち一回的、個性的)呼と応とを喚起してゆく。応える者は応えることによって実は呼んでおり、呼ぶ者は呼ぶことにおいて実は応えている」といい、「呼応性が根柢に存しなければ技術も制作も成り立たず、呼応的同一性を離れて創造はない。創造はdeus ex machinaのごとく、呼応の外部から突如生ずる事件ではない」と述べている。

高山氏は呼応的同一を場所的論理の根本原理とする。場所的論理の図式は、氏もいうように、「場」と「所」と「個」と考えることができよう。書についていえば、文字が個であり、その位置とあり方が所であり、紙面が場であろう。場(紙面)と個(文字)とが相呼応し、個が静まり、場が静まるならば、個は場において所を得たのである。禅はすべての事物の所を得ることを期するが、書もまた一点一画が所を得、それぞれの文字が所を得ることを期する。紙面と文字とがよく呼応し得たとき、秩序が形成され、統一的世界が現成する。それは「所」が定まったことを意味し、そこに呼応的同一性が証される。高山氏は「所は特に秩序を表現する」という。

場は本来空間的であるが、書における場は動的推移のうちに逐次形成を見るものであり、したがってそこに多分に時間的意味をもつ。「もし時間の次元を本質的に含む空間を世界と称するならば、場は世界であるということが出来る」と高山氏は説くが、書における場はその意味においてまさに一つの世界と見るべきである。

氏はまた、場を状況的なものとしてとらえ、状況は課題を形成し、課題は解決を喚起し、課題と解決との間に呼応の原理が存するとし、課題が解決されるに至る過程における作業が「探究」であるという。そして、「課題と解決とは場において成立するものであって、呼応とはこの課題と解決との間に見られる、場所論理的なものである」「場所的論理は、それ自体において理論的性格のものであると同時に実践的性格のものである」と述べている。われわれの書活動も、さまざまの課題を設定し、或は内に切なる課題を自覚し、その解決のために苦吟する探究の過程と見ることもできよう。高山氏はまた、「解決は知識ではなくして決断に基づく行為である。課題がその基本的性格において認識的であるのに対し、解決はその基本的性格においてむしろ行為的である」というが、書の解決は全く行為的である。 「場所的論理と呼応の原理」の序文に、「呼応は主体間(我・汝・彼)の基本関係であり、人間的事象の解釈の基本範疇であるのみならず、行動、制作、決定の規準(理想)となるものである。天台哲学の互具互入の論理(三諦円融・一念三千等)、華厳哲学の相即相入の論理(十玄縁起・六相円融等)の意義を認めると共に、そのもう一段深い根拠を見出したく思い、これを実は呼応と考えるのである」と記されており、「呼応」についての氏の思索の深さと、その壮大な構想を思う者である。