正念相続
正念相続は禅の肝心である。書においても正念の相続によって真に生きた作品を生むことができる。とかく作品に分裂を来すのは相続ができないことに因る。一点一画、正念の働きであってはじめて、書作は有機的一者となり得るのである。
白隠は行動の中の禅を重んじ「動中の工夫は静中に勝ること百千万億倍す」といった。運筆はまさしく動中のことであり、正念相続の工夫に恰好な時間である。
正受老人は「従上の諸聖、正念工夫親切の様子、則ち万古不易の正修なり」といい、「那時かこれ打失のところ、那時かこれ不打失のところ、一切処においてかくの如く点検せよ」という大慧禅師の語を挙げ、「十二時中、四威儀の間、須らく正念工夫、打出せざるを第一となすべし」と垂示された。白隠もまた「大乗円頓の参学は千差万別の塵務とりも直さず直ちに是れ潜行密用の大事、七縦八横の世波のままにして、総に是れ正念工夫の全体なるぞと、行住坐臥の上に於て、親切に参窮する、是れ肝心の秘訣に侍り云々」といっている。
なお正念の働きを述べたものに、沢庵の「不動智神妙録」がある。これは禅をもって剣を説いたものであり、また剣に例えて禅を語ったものとも見られる。鈴木大拙は「禅の根本義に触れているから、いろいろな意味で重要な文献である」とし、欧米に禅を紹介するにあたってかなり長く引用している。
沢庵は「不動とは動かずと申す文字にて候。智は智慧の智にて候。動かずと申して、石か木のように無性なる義理にては無く候。向へも左へも右へも、十方八方へ心は動きたきように動きながら、卒度も留らぬ心を不動智と申候」と説く。そしてくりかえし「とどまる心」を戒める。心が対象にひっかかったり、ものごとに奪われたりしては、こちらの働きがぬける。それが正念の打失である。この留まらぬ心は、即応即決を生命とする書の道においてまた極意でなければならない。沢庵はどこにもとどまることなく、総身にのびひろがった心を「正心」とも「本心」ともいい、また「無心の心」ともいう。本心は水のようなもの、「妄心」は氷のようなものであるとし、「氷にては、手も頭も洗われ申さず候。心を溶かして総身へ水の延びひろがるように用い、その所にやりたきようにやり使い候。これを本心と申し候」というわけである。そして「かように心を忘れ切って、万の事をするが、上手の位なり。舞を舞えば、手に扇を取り、足を踏む。その手足をよくせむ、舞をよく舞わむと思いて、忘れきらねば上手とは申されず候。未だ手足に心止まらば、わざは皆面白からまじ。悉皆心を捨てきらずして、する所作は皆悪しく候」と、諸道揆を一にして、無我の働きによるべきことを説く。至道無難禅師が「大道の極意」と題して「ことごとく死人となりてなりはてておもいのままにするわざぞよき」と詠じたのもこの点を示すものであろう。
沢庵はさらに「前後際断と申す事の候。前の心をすてず、又今の心をあとへ残すが悪しく候なり。前と今との間をば、きってのけよという心なり。これ前後の際を切って放せと言う義なり。心をとどめぬ義なり」という。心をとどめず行動をつづけるということは前後を際断する体験である。前後際断したところすなわち絶対の現在である。禅はその絶対現在の体験であるといってよい。書道の場が前後際断の行為的展開となるとき、書はまさに禅の真只中である。
オイゲン・ヘリゲルは「精神がどこにも、如何なる特殊の場所にも執着しないが故に、到る処に現在する」と述べ、それを「正しい精神の現在」といった。ヘリゲルは「不動智神妙録」を最高級の文献的記録と評価している。
道元は「たきぎははいとなる。さらにかえりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといえども前後際断せり」という。田辺元博士は、前後際断こそが、いわゆる非連続の連続の真義であるといわれた。博士は道元の所説について、「その弁証の細緻透徹、西洋哲学に於て有名なるアウグスティヌス懺悔録中の時の分析における、今の去来と今の恒常との相即、時の媒介としての世界と意識との対立的統一の思想に、優るとも劣る所がない」と称揚し、「いわゆる今日より今日に経歴する経歴は主体の絶体的同一が直ちに自己分裂的動性そのものとして、非連続的有時を絶対否定する永遠の動即静なることを表わす。経歴とは、時の各瞬間を絶対の現成として絶対的に個別化する截断が、直ちに絶対統一としてそれ等を合一せしめる連続の原理なることを意味するであろう。いわゆる非連続の連続の真義は、禅道にいう前後際断でなければならぬ。前後際断の絶対現成が、一々現在をして絶対に個別なる全機現たらしめる。その全機現が絶対の現成として相合一するのが際断(截断)即連続として、経歴の絶対動性即恒性に外なるまい。プラトンの『突如態』(瞬間)アウグスティヌスの『現在の現在』ハイデッガーの『脱自的統一』という如きものも、時間の原理として帰趣を同じくするであろう」〈正法眼蔵の哲学私観〉と述べている。
沢庵はまた「応無所住而生其心」こそ「向上至極の位にて候」という。金剛経の荘厳浄土分に「仏土を荘厳すとは即ち荘厳にあらず。これを荘厳と名づく。この故に須菩提、諸の菩薩摩訶薩はまさにかくの如く清浄心を生ずべし。まさに色に住して心を生ずべからず。まさに声香味触法に住して心を生ずべからず、まさに住する所無くして、その心を生ずべし」とある。川老註に、「もし自らその心を浄めず、清浄の処に愛着して、心に住する所あれば即ちこれ法相に着するなり。色を見て色に着し、色に住して心を生ずれば即ちこれ迷人なり」「色に住して心を生ずるは、雲の天を蔽うが如し。色に住して心を生ずるは即ちこれ妄念。妄念生ずれば則ち暗なり。暗なれば則ち六塵競い起る」と説かれている。 鈴木大拙は、金剛経に見る般若即非の論理が、霊性的直覚の知性面を道破したものであるに対して、この句はその行為面を直叙したものであるという。応無所住而生其心は、書的行為を遂げるためにもまた至極の心法である。