禅僧の書 無学祖元
無学祖元(一二二六ー一二八六)は、時宗に招かれて日本に来り、円覚寺の開山となった。幼少のとき、父とある山寺に遊び、一僧が、
竹影掃階塵不動 竹影階を掃って塵動かず
月穿潭底水無跟 月潭底を穿って水あとなし
と吟ずるをきき、出家の志をおこしたという。十三歳にして杭州浄慈寺の北澗禅師に投じ、翌年径山に登り、無準の門に入った。無準から「狗子無仏性」の公案を授けられ、これに参究すること実に七年の久しきに及んだという。
祖元が中国温州の能仁寺に住したとき、元兵乱入し、禅師の首に白刃をあてたが、神色変らず、次の偈を吐き、彼等を陳謝遁走せしめた話は有名である。
乾坤無地卓孤笻 乾坤、地として孤笻(一本の杖)を卓す(立てる)るなし
喜得人空法亦空 喜び得たり人も空法もまた空なるを
珍重大元三尺剣 珍重す大元三尺の剣
電光影裏斬春風 電光影裏春風を斬る
秦慧玉老師は祖元の偈を激賞し、当時高僧中の第一人者と述べ、五山文学興起の端緒をなしたといっている。虎関の「元亨釈書」には、祖元の偈は「俊偉、作者の風あり、……近世の諸老に此の作なし」と記されているという。
頼山陽は「相模太郎胆甕の如し」と、元冠に処した時宗をうたがったが、時宗をそのように鍛えた人こそこの無学祖元であった。蒙古襲来の確報を受けた時宗は師祖元に参じて、「生涯の一大事到来」と告ぐると、師は「如何に対処するや」と問う。時宗は宇宙を撃破するような威を振って「喝!」と叫んだ。祖元は悦んで「真の獅子児能く獅子吼す」と嘆じたという。
時宗の父時頼も禅道に励み、建長寺を造営し蘭溪道隆禅師を迎えて開山とした。また時宗の妻は鎌倉松ケ丘に尼寺東慶寺を建立した。まことに一族の禅への傾倒がしのばれる。
弘安七年四月、時宗は三十四歳で早逝した。祖元は痛嘆甚しく、翌々年九月三日「来亦不進、去亦不後、百億毛頭獅子現、百億毛頭獅子吼」と書し、六十一歳で入寂し去った。仏光禅師と勅諡され、後に光厳院より重ねて円満常照の国師号を賜った。
図三五は弘安三年五月、一翁院豪に伝法のしるしとして法衣を授けたとき、一翁のもとめに応じて書したもので、現在根津美術館蔵となっている。「仏光国師語録」巻九に「付衣一翁長老」と題して、この偈頌の全体が採録されており、それによれば、「一肩……」の前に次の句がある。
仏々授手祖々相伝
堂々密々此土西天
一翁長老
一翁院豪は寛元年間に入宋し、無準師範に参じたが、印可を受けずに帰朝し、上州世良田の長楽寺に住した。祖元禅師が鎌倉に来るのを喜び馳せ参じた。ときに一翁はすでに七十歳であった。私はいくたびか長楽寺を訪れ、高徳一翁禅師をしのんで感慨を深うした。
宮島栄氏は祖元の書について次のように言っている――魄力勝れ、修飾の気無きこと実に閲歴を見るが如く、隆蘭溪より更に枯淡味無量で、蓋しこの両師は彼我禅林墨跡界の双璧と言い得よう。

図35 無学祖元墨跡

図36 蘭溪道隆墨跡