禅僧の書 無準

 無準師範(仏鑑禅師、一一七七ー一二四九)は宋代掉尾の禅傑であり、当時天下第一等の宗師と称せられた。宋代の学問的動向として、儒・仏・道の融合統一を期するところがあったが、無準は禅者の立場において、よくこの時代思潮に対応し得た、まことに大いなるスケールの人物であった。その語録に、「三教聖人、同一舌頭、各々門戸を開く、其の旨帰を鞠せば、則ち二致なし。惟、禅宗は語言情識の表に超出す。之を無門の門と謂う」とある。

 無準もまた日本の禅宗史にとって極めて重要な存在である。かの聖一国師(円尓弁円 一二〇二ー一二八〇)は中国に渡り、親しく無準に参じ、その法を嗣いだのである。なお無準門下で、わが国に禅を伝えたものに、兀庵普寧、無学祖元、妙見道祐、性才法心等がある。あの高い水墨の表現をなし得た画家牧溪もまた無準の指導を受けたという。

 さて聖一国師が帰国して、博多に承天寺を建立したとき、無準はこれを聞き及び、国師のために諸堂の額牌の大字を書して贈ってよこした。いわゆる「付法伝衣の書翰」にその消息を知ることが出来る。無準が国師におくった書翰の中に、次のような意味のことが記されている。

 ここに礼拝自書して承天堂頭長老に申し上げる。いま錦襴の法衣を貴僧に附受する。これは代々祖師方が伝え来った大切なものだ。貴方からの御進物はありがたく頂戴、御芳情感銘のほかない。このごろ豪上人の持参された書信を拝見して、達者であることを知ってうれしい。御依頼の大字は一々書き上げたが、貴方の寺が大きく、わたしの字が小であることを恐れる。果してお役に立つかどうか。もしまづいようだったら、遠慮なく言ってくれ。また書き直すから。
 どうか、からだを大切にして、正しい禅を広めてくれるようにたのむ。

 博多の承天寺はやがて天台衆徒の焼打ちにあい、国師は無準師からおくられた額字類を携えて京都の東福寺に入るのである。こうして無準の書は東福寺に伝存することになった。東福寺には国師の甥にあたる奇山円然が書いた「仏鑑禅師御筆額字目録」が所蔵され、その中に、「釈迦宝殿」「潮音堂」「選仏場」「大円覚」等々二十数種が挙げられ、「仏鑑禅師御直筆」と明記されているという。無準の書にはしっかりした骨骼と、柔軟にして而も強靱な線質が感じられる。まことに肚のすわった堂々たる本格の書である。

図33 無準師範墨跡

 木下政雄氏は東福寺の額字について、「単に禅宗史、書道史上の名品としてのみならず、日中文化交流史上の重宝である……。この気力の充実した宋代禅林墨跡の白眉ともいうべき大額に今静かに対坐してみると、古典とはいいながら、今日の書の美意識にも通ずる簡潔な造型美が感ぜられ、また書というものは、その技の修練と共に、日一日の精神面の充実が如何に大切か改めて考えさせられる」といっている。

 また武者小路実篤も「書に就て」という文章の中で、宋代の禅僧の書に驚嘆したと述べ、次のように記している。「矢張り禅坊主の心境はたしかに大きい処があり、動かせないものがある。書は僕にはかいた人の心境が一番露骨に感じられ、その心境に感心出来るものに僕は一番驚嘆しているのだ。だから書をかく人は、僕にとっては、心境が先ず第一と思っている。その心境がなって居ないでは、どんな形の書をかいてもつまり、同じことだと思っている。どんな姿して歩いても、甲は甲で、乙ではない」。

図34 無準墨跡

 このように書家ならぬ学者文人の意見は、まず書者の内部世界を問題にする。いったいわれわれが懸命に書をかいてゆくことは、一面われわれの心境を高めることでなければなるまい。自分を汚し、自分の心境を低俗なものにするために、わざわざ高価な紙墨を消費し、人生の大切な時間を費すものは無い筈だが、実はそうとしか思えない書が今日何と多く氾濫していることか。そういう書家には、心境など書をかく上に何の関係もないのであろうか。心をしずめて、篤と禅者の書を観るときに、藝術の第一義ともいうべき、自己の内部世界に気付く筈である。