禅僧の書 虚堂
虚堂智愚禅師(一一八五ー一二六九)は、日本にとって甚だ意義深い人である。日本から宋に渡って、虚堂に参じた者は多く、その代表的な存在が、かの大応国師である。大応国師南浦紹明は正元元年(一二五九)入宋し虚堂に師事した。時に二十五歳であった。
咸淳元年(一二六五)南浦は画師に依頼して虚堂の像を描かせ、虚堂に賛を請うた。このときの賛詞の中に「紹既に明白、語宗を失せず」とあるから、そのころすでに南浦は相当の進境に在ったと思われる。
やがて南浦は左の悟入の偈を呈する。
忽然心境共忘時 忽然として心境共に忘ずるの時
大地山河透脱機 大地山河機を透脱す
法王法身全体現 法王法身全体現ず
時人相対不相対 時人相対して相対せず
虚堂は大いに喜び「この漢参禅大徹せり」と言ったという。
咸淳三年(一二六七)の秋、南浦が日本へ帰るに際し、虚堂は次のような偈を寄せている。
敲磕門庭細揣磨 門庭を敲磕して細に揣磨す
路頭尽処再経過 路頭尽くる処再び経過す
明明説与虚堂叟 明々に説与す虚堂叟
東海児孫日転多 東海の児孫日に転た多からん
虚堂のこの偈に付した文中、「万里の水程、道を以て珍衛せよ」とあり、大応に対する慈愛の深さをしのぶことである。
なおこの偈は、「東海の児孫日に転た多からん」という句のあるところから「日多の記」と称される。関山慧玄の遺誡にも「路頭再過の称を得て、児孫日多の記を受け、楊岐の正脈を吾が朝に単伝する者は老祖(大応国師)の功なり」とある。「東海の児孫日に転た多からん」虚堂の法系を継ぐ児孫は日本においてこそ増大してゆくであろうという虚堂の予言は適中した。
さてここに掲げた虚堂の墨跡はもと武野紹鷗が所持していたが大文字屋栄清にうつり、その後松平不昧公に帰した。昭和のはじめ、松平直亮氏から国立博物館に献上され、今日国宝となっている。不昧公の「道具帖宝物之部」の記事はその尊重ぶりをうかがわしむるに十分である。

図32 虚堂智愚墨跡
一、虚堂禅師墨跡
訓点巻物
古表相
所謂破虚堂是也
二、槍鞘 小瀬戸
蓋袋
松木盆
右両品者天下名物也。槍鞘茶入者和物
之第一にて上なき品也。依て前之二品
に次て格別大切に可致者也
文化八年未九月 不昧印
この虚堂の墨跡は静寂にして沈着、まことに透朗たる境界であり、特に掠法のソリに特色を見る。この書は、日本の照禅者の請に応じたものである。照禅者とは無象静照(一二六五ー一三〇六)のことで、入宋してはじめに石溪心月につき、更に虚堂の門をたたいた。帰朝後は仏心寺、興禅寺等を創建し、聖福寺、浄智寺の住持となった。