禅僧の書 大慧

 その師円悟の編著である「碧巌録」を、真禅のために害ありとて焼き棄てた豪傑、それが大慧である。かつて安岡正篤先生の、「禅と陽明学」と題する講義のうちに、かの朱子が「大慧宗杲は禅家の雄なり」と称したという話があった。

図31 大慧宗杲墨跡

 大慧宗杲(一〇八九―一一六三)は宣州寧国(安徽)の人で、姓は奚氏といった。十七歳にして慧済について得度し、具足戒を受けた。はじめに曹洞の宗旨を究めたが、後に慕(てつ)、照覚、智珣等の諸老に見え、さらに湛堂文準に参じた。湛堂は病となり、再起不能になったとき、円悟克勤につくことをすすめた。大慧は開封の天寧寺に赴き、円悟に参禅問法した。あるとき「……もし人あって如何なるか諸仏出身の処と問わば、只向っていわん、薫風南より来り、殿閣微涼を生ず」という円悟の説法をきいて省悟するところがあったという。

 大慧はなお参究をつづけた。紹興七年、五山第一といわれる径山に住持したが、道望高く、馳せ参ずる学人は二千を超えた。当時のすぐれた士大夫たちも次第に大慧の道価を知り、交遊するものが多くなった。

 紹興十年(一一四一)大慧に参じていた張九成が、宰相秦檜に斥けられたが、大慧もまたその一味とされ、僧衣度牒を奪われ、衡州へ謫居させられた。衡州にいた十年の間に、先徳の語を集めた「正法眼蔵」を撰述した。

 秦檜の没した紹興二十五年大慧はゆるされて育王山に住し、さらに径山に再住したが、またしても道俗は多く慕い集まったのであった。化導数年にして明月堂に隠退したが病を得て隆興元年八月十日示寂した。「生や祇恁麼、死や祇恁麼、有偈と無偈と、是れ甚麼の熱大ぞ」と大書し、筆を投げて入寂したという。孝宗は大慧の死をかなしみ、詔を下し、明月堂を妙喜庵とし、普覚禅師と追諡したのである。

 大慧は古則公案を工夫する「看話禅」を提唱し、宏智正覚の「黙照禅」を邪党として痛罵した。しかし晩年両者は水魚のような道交があった。育王山の雲衲たちまち万指に満ち、食糧困窮すれば、宏智は食糧を送ってこれを救った。天童古仏(宏智はそのとき天童山に住していた)でなければ、どうしてこのような力量があろうかと、大慧は宏智に謝し、その徳をたたえた。宏智は示寂に臨んで遺書を認め、後事を大慧に嘱しているのである。

 大慧が当時の縉紳居士のために、宗門上の要旨を示した書翰集、すなわち「大慧普覚禅師書」は、今日臨済七部書の一とされ、必読すべきものとして尊重されている。因みに七部書とは、「大慧書」のほかに、「臨済録」「碧巌録」「虚堂録」「正宗賛」「江湖風月集」「禅儀外文」を指す。なお、大慧の撰述に「宗門武庫」がある。大燈国師などは一生受用し、これを味読したと伝えられる。

 大慧の書は気魄に富み、働きがあり、甚だ格調が高く、墨跡中特にすぐれたものと見る。