仁王禅と氣合の書
鈴木正三は「勇猛の機一つを以って修行は成就するなり」といい、「仏道修行というは、二王不動の大堅固の機をうけて修行すること一つなり。この機を以って身心をせめ滅すより外、別に仏法を知らず」という。いわゆる正三の「仁王禅」である。正三はまた「只死ぬことを習いめされよ、別のことはいらぬなり」とし、「果し眼坐禅」を唱えている。命がけの気合である。的翁老師は正三の禅に甚だ共感され、その語録をもっていくたびも提唱された。老師は、奥の院の観音に到るには順序があり道程がある、まずは仁王の山門を通らねばならぬと説かれる。仁王が全身の気力いっぱいに、活気凛々と突っ立っているように、修行者はまず自身仁王になりきれというのである。したがって学人の書道は仁王さながらに全力を尽す勇猛の気合が重んじられる。
なお「気合」について、「全身に気力が充実し、烈火の如くに燃えたぎって触発せんとして未だ触発せざる機、およびその爆発をいうと解してよい」「何らかの対象に向って集中的に働くものが気合である。しかもほんとうに気合がかかったときは、自分も対象もなく、いわゆる無我の働きになる」と述べられている。
正三は「仏法修行は、慮知分別の心を去って、着相の念に離れ、無我の心に至って私なく、物に任せて自由なり。此の心は則ち諸藝能に使う宝なり」といい、「上手藝を初心の者に授くる程に用に立たぬなり」と注意している。また農民たちに対して「各々も体はこれ仏体、心はこれ仏心、業はこれ仏業なり。一鍬一鍬に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と耕作せば必ず仏果に至るべし」と教えている。その鍬を筆として、一点一画になりきる運筆の行為はそのまま仏業であって、書道すなわち禅となるところである。