第六章 胸中ということ

 段玉裁の「述筆法」という著述は甚だ有名である。段氏はその冒頭において、「書法の古人に及ばざるは、古人の胸中なければなり」といって、まず第一に「胸中」という問題を提示した。今日書道が古人に及ばない理由として胸中が違うからだというのである。段氏は次にもう一つの理由を挙げ、また「執筆の法を得ざればなり」といっている。執筆の問題はおのずから用筆法に発展する。段氏は「述筆法」という書名のように、もっぱら執筆、用筆の法を説くのであるが、さきにいったようにまず第一に「胸中」という問題を提起していることに注意せねばならない。

 実は用筆を根本的に規定するものは胸中であることは、われわれの体験するところである。孫過庭も「書譜」に、「たとい運用未だあまねからず、なお工を秘奥にかくも、しかも波瀾の際すでにふかく霊台より発す」と述べ、技術的に未熟な段階においても、運筆のリズムは深く霊台すなわち胸中から発現するといっている。朱履貞はこの「書譜」の文に註して、「人心の霊はよく天人の変化に通ず。况んや書法人に在るをや。故に運用未だあまねからず、工を秘奥にかくと雖も、識鑑は心に在り云々」という。「識鑑」とは識見、鑑賞眼であり、いわゆる胸中の内容であり、およそ藝術表現の本源である。朱履貞はまた別のところで、書の六要を説き、その一に「識鑑」を挙げ「識鑑短なれば則ち今古に俳徊して、胸に成見なし。然れども造詣無窮の功夫は、是れ法外に在るを要す。蘇文忠公(東坡)のいわゆる『退筆山の如きは未だ珍とするに足らず、読書万巻始めて神に通ず』とは是れなり」と、甚だ胸中を重視する。

 朱和羹は「用筆の妙は性霊に関わる」といい、郝経はさらに端的に「その書法は即ちその心法なり」と断じている。劉煕載は、書は「心学」であるといい、「神を錬る」ことが最も重要であり、次いでは「気を錬る」ことであると、胸中を練り養うことを学書の要訣とする。日本の尊圓親王の書論にも「字の形は人の容貌、筆勢は人の心操、行跡にて候。所詮諸道の習学は、心の上の所作にて候う間よく古賢の心に基づきて、その道を学び候えば、自然に妙を得候うなり」とあり、つまるところは同じく胸中を重んじているのである。

 朱熹は、「羲之の十七帖は、その筆意を玩すれば従容衍裕、気象超然として、法のために縛せられず、法脱を求めず、真にいわゆる一々自己の胸襟より流出するものなり。ひそかにおもうに、書家者流はその美を知るといえども、その美たる所以を知らざるなり」といって、羲之のすぐれた表現の源を胸中に帰する。「自己の胸襟より流出す」とは、岩頭の語によるものであろう。「門より入るものは家珍にあらず。須らく一々自己の胸襟より流出しもち来って蓋天蓋地し去れ」という岩頭の語をきいて、雪峰は言下に大悟したという。朱熹はまた、韓琦(かんき)の書を端厳であると評し、それは安静詳密ともいうべきその胸中に因るものであろうと述べている。

 郭熙は宋代のすぐれた画人であるが、「人は須らく胸中寛快、意思悦適を養得すべし」と述べている。意思が寛快悦適であるように、自己の胸中を養ってゆくことが大切であるというわけである。そしてその後に「易直子諒油然の心生ずる如くなれば」描くべき対象の状情は適確に把握でき、自然にうまく筆が働く、といっている。ここにいう「易直子諒云々」は、「楽記」の次の文によるー「楽を致して以て心を治れば則ち易直子諒の心油然として生ず」。「易」はやわらいだやさしい気持であり、「直」は素直な心、「子」は慈愛であり、「諒」は真心である。音楽によって、易直子諒の心が胸中に湧く、と楽記にいう。郭熙はこの楽記の意をふまえて、易直子諒の心的状態こそ制作の前提たるべきことを述べているのである。郭熙はまた「画を学ぶのは書を学ぶのと違ったことはない」ともいっている。郭若虚は郭熙の作を評して「胸臆をほしいままにし」ているといった。東坡、山谷も郭熙の藝術を賛称して詩をなしている。

 山田正平はすぐれた篆刻家であり、書画を善くした。正平は次のようにいっている。

 古人が「印は小技なりと雖も須く静坐読書すべし」といっているが、要するに雑念をしりぞけて感興をたかめよということであろう。感興の湧くところには自ら旺然と気力が出てくる。感興は制作の生命である。

 このように感興の肝要であることを体験的に語っている。感興こそが制作のいのち(、、、)であり、「章法、構成、疎密、照応など学んで得やすく才の働らく場である」という。正平の師事した芋銭も「何よりも自分の感興に真実であれ」と教えたという。

 感興とは胸中の動きである。或は激越な情感の奔騰であり、或は深く沈淪して寂静をたたえる境地である。ときに急迫して突き上げてくるものであり、ときに静かにしみじみと心底をひたす。感興にはまた次元の高低がある。

 梧竹は、「中に感ずるありて、声音に顕わるるものは言語これなり。中に感ずるありて、点画に顕わるるものは文字これなり。今かの感じて喜ぶものあり、感じて怒るものあり、感じて哀しむものあり、感じて楽しむものあり、感の動くこと一ならず。同一人の字にして、同一字なるも、憂うるが如く、悲しむが如く、笑うが如く、舞うが如く、変化窮詰すべからず。これ書の妙なる所以なり。中に感ずる無くして書す、故に字、神情の寓する無し。苟も字は神情の寓すること無ければ則ち鉛版石印と何ぞ選ばんや。工なりと雖も称するに足らざるなり」と、やはり書の妙は胸中の感興に因ることを説いている。

 斎藤茂吉の「衝迫」の説も、一種の感興論である。茂吉はいう、「作歌は飽くまで、『衝迫』にしたがうことが緊要である。衝迫というのは平たく云えばむらむらと作歌したくなる気持をいうので、古来歌ごころ湧くなどといったのと同じである」〈「短歌初学門」〉と。また「童馬漫語」には、「予が短歌を作るのは、作りたくなるからである。何か吐出したいという変な心になるからである。この内部急迫(Drang)から予の歌が出る。この『せずに居られぬ』とは大きな力である。同時に悲しい事実である。方便でなく職業でない。かの大劫運のなかに、有情生来し死去するが如き不可抗力である」と述べている。このように、すぐれた作品を生んだ作家は胸中の感興を肝腎としているのである。

 ところで山田正平は感興について感嘆するごとくに次のようにいっている。

 感興とはーー精神の怡悦か、造物者と游ぶ心か。

 孫過庭は書作の善いコンディションとして第一に「神怡」を挙げた。すなわち精神の怡悦ということである。古典における「怡」の字の注を見ると、「和也」「楽也」「喜也」「悦也」「通也」などとあり、「悦」はよろこぶ意であるから「怡悦」の意味内容を把握することができよう。精神の怡悦とは、心が和み、純粋であって、よく本性の働く状態であろう。したがってそれは、さきに挙げた郭煕の念願するところの心的状態に通ずるものである。いわゆる「易直子諒の心」はすなわち怡悦の精神といってよかろう。

 その易直子諒の心は、「楽を致して心を治むる」ことによって「油然として生ずる」のだと説く「楽記」の説は、いわば己れの精神に怡悦をもたらすための一つの方法論でもある。「楽を致す」とは音楽の演奏とか鑑賞とかである。たしかに精神の怡悦は藝術の制作なり、鑑賞なりに純粋に携わるとき、おのずからもたらされるものであることは体験上うなずけるのである。

 研斎担雪居士は、刀の鑑賞によって精神の怡悦を覚えることを語って、「対象としての刀の美を認めて感激するのでなく、刀の美と別ならざるわが心の美を自覚して、こみ上げてくる絶妙超脱の喜悦感を味わうことである」といっている。 

 先進の提唱した精神の怡悦はおよそ作家の望むべき心的状態であり、いかにしてこの状態を己れの胸中にもたらすかということが、名品を生むか、凡作を生むかのキーポイントとなる。

 智()は呼吸論を詳述しているが、呼吸が粗であると心が散乱して、とりしまることが困難になるといい、音もなく、結ばれることもなく、出入綿々として存するがごとく、亡するがごとき呼吸をつづけると、「身を(たす)けて安穏、情、悦予を抱く」と述べている。「集字聖教序」の中に、玄奘三蔵は「三禅に栖息」していたと記されている。三禅とは第三禅天のことで、定生喜楽地と解される。つまり怡悦する平常心に生きていたというのである。

 次に「造物者と游ぶ心」に関し少しく考えてみたい。

 造物者と游ぶ心とは、制作が妙境に入って、造物者が我になり、我が造物者になるようなところであろう。一点一画するのは我であって我でない消息がある。鈴木大拙は、真の藝術家は、その創作活動が高潮に達したとき、造物者の代理人になる、といっているが、そのような状態において造り出されたものは、藝術家の作物であると同時に造物者の造物であるということもできよう。そしてこの境界においてこそ、一個の藝術家の真の個性的創造が果されるのである。

 作品を高めるためには、感興を高めてゆかねばならぬ。先師松本洪先生は「志」という字は、()く心だと説かれた。藝術の世界においてゆく心とはすなわち感興である。三好達治の詩に「志おとろへし日は」と題する作がある。それは感興の沈滞を意味するであろう。しかし、

 こころざしおとろへし日は
 いかにせましな
 冬の日の黄なるやちまた
 つつましく人住む小路
 ゆきゆきてふと海を見つ
 ………

とうたうところに、この詩人の文学的感興をとりもどす工夫を見ることができよう。幻華山人にも

 こころざしおとろへし日は
 胸中の芯を抉るほかない
 酸いか、苦いか、辛いか、無味か云々

という詩句がある。

 動物行動学者のローレンツ教授は、「文明化した人間の八つの大罪」の一つに、「感性、情熱の萎縮」を挙げているというが、感性、情熱の萎縮したところに欝勃たる藝術的感興など望むべくもあるまい。

 楊守敬は「学書()言」の冒頭において、梁同書のいわゆる学書三要(天分、多見、多写)にさらに二要を増すべしとし、「一は品の高きを要す。品高ければ則ち筆を下すこと姸雅にして塵俗に落ちず。一は学の富なるを要す。胸に万有を羅すれば書巻の気自然に行間に溢る。古の大家これを備えざるはなし。断じて胸に点墨なくして能く等倫を超(いつ)するものあらざるなり」と述べている。胸中より発する書巻の気を貴ぶのは、書観の正統のごとくであり、黄山谷は東坡の書に「学問文章の気」が発しているといい、東坡は蔡君謨の書を評価して「積学深至、心手相応」といっている。また梧竹は徂徠の書について、「物徂徠、気宇高朗、学術広邃、一代に雄視す。故にその書は精妙いうべからず。筆力遒く、風品の高きは遙かに衆家を超絶し、卓然として一家をなす」と絶賛するが、やはり胸中の学富を根本とする思想であろう。

 富岡鉄斎は自宅の玄関に「五千巻の書を読まざる者は、この室に入るを得ず」という額を掲げていたというが、いかにも学者をもって任ずる鉄斎の面魂が思われる。その額は趙之謙の書を山本竟山に嘱して縮写せしめたものという。神田喜一郎氏によれば、五千巻云々の語は、南北朝時代、斉から隋にかけて生存した崔(ひょう)がはじめていい出した言葉である。彼が書斎の入口の戸にこの語を掲げていたことが、「隋書」や「北史」に特筆されている。神田氏は、崔儦から趙之謙、それから鉄斎へと一つの血脈がたどられるが、これは鉄斎の藝術の本質にふれる重大問題であると指摘している。

 山谷の書論にも多く胸中が重視される。彼は学書の要は胸中道義を有し、これを広めるのに聖哲の学をもってすることだという。また「周子発帖」に寄せて、王著の臨書した蘭亭序、楽毅論、補筆した智永千字文は極めて用筆を善くしたものである。もし胸中に書数千巻あって、碌々と世に随うことがなかったならば、その書は風韻を有し、李西台や林和靖よりすぐれたものになったであろう。いったい美にして韻を病むものは王著であり、勁にして韻を病むものは周越である。技術は尽しているのだが、大切な韻がないのは「胸次の罪」であるといっている。

 なお「題子瞻枯木」と題する、次のような詩がある。

 折衝儒墨陣堂々  儒墨に折衝して陣堂々たり
 書入顔楊鴻雁行  書は顔・楊鴻雁の行に入る
 胸中元自有丘壑  胸中元自から丘壑あり
 故作老木蟠風霜  故に作す老木の風霜に蟠るを

 劉煕載の書論にも「胸次を陶する」ことが大切だという。「陶」は、やしなう、化する、ただす、のぶ、たのしむ等の意がある。劉氏は、司空表聖の「二十四詩品」は、庾子慎の「書品」よりも学書の上に有益である、それは胸次を陶するに足るからである。そしてそのことは書に深くして、しかも書に()れざるもののみが知るところだという。

 司空表聖は晩唐の人。その詩論は唐代を代表するものとされ、後世へ影響するところが大きかったという。彼は唐祚奪われ、哀帝が弑されると、食を止め、血をはいて憤死した高士である。「二十四詩品」とは詩趣を二十四に分類し、各品ごとに賛のような説述を付したもので、「平奇濃淡、体として備わらざるなし」と評される。その二十四とは、雄渾、冲淡、繊濃、沈着、高古、典雅、洗煉、勁健、綺麗、自然、含蓄、豪放、精神、縝密、疎野、清奇、委曲、實境、悲慨、形容、超詣、飄逸、曠達、流動である。その一々に対して、四言十二句の韻語をもって趣致を述べた。たとえば「含蓄」について次のようにいう。

一字を着けず、尽く風流を得、語、己に渉らず、憂に堪えざるがごとし。
是に真宰あり、これと浮沈す、緑の酒に満つるが如く、花時に秋を返す。悠々たる空塵、忽々たる海漚、浅深聚散、万取一収す。

 第一章は「含蓄」を通論し、第二章は「含」字を説き、第三章は「蓄」字を説いているといわれる。まことに味わい尽きぬ、深遠の意境である。ジャイルスはこれを哲学詩として英訳しているという。

 表聖の詩論は、清の王士禎が「神韻説」を樹立する上に多大の影響を及ぼした。また袁枚は「二十四詩品」に倣って詩品を作り、黄鉞はこれを画論に応用して「二十四画品」を製した。

 劉煕載は、詩論であれ、画論であれ、文章論であれ、胸次を陶するに足る名言にこそ学ぶべしとする。その態度は彼の論述の処々に明らかである。

 「山上宗二記」に、「目(キキ)ニテ茶湯モ上手、数奇ノ師匠ヲシテ世ヲ渡ルハ、茶湯者(チヤノユシヤ)ト云フ。一物モ持タズ、胸ノ覚悟一、作分一、手柄一、此ノ三箇条ノ調ヒタルヲ佗数奇(ワビスキ)ト云フ。唐物所持、目利モ茶湯モ上手、此ノ三箇モ調ヒ、道ニ志深キハ名人ト云フ也」とある。

 これは茶人の資格を三段階に分けて述べたもので、利久の立てた規格であろうといわれる。桑田忠親氏は、よく〝利久にかえれ〟という声をきくが、それは右の規格にかえることだといい、滅茶苦茶とか、お茶を濁すとかいうのは、この茶人の規格が崩れてからできた言葉であろうといっている。

 この「山上宗二記」にいう「茶の湯者」は世間一般の茶の師匠であり、最後の「名人」は珠光、紹鷗のような別格な人であろう。利久や宗二が茶人の理想としたのは「佗数奇」であるに相違ない。佗数奇とは「日葡辞書」に「道具が少なく、壁が簡素であるような茶の湯に傾倒すること」と解されているというが、厳しさの中に精進する求道的茶人を意味するものであろう。

 利久の流風を正しく守ったといわれる久保権太夫の「長闇堂記」には「只胸の覚悟第一ならん」と述べられている。桑田氏も現代の茶人に最も欠けているのは胸の覚悟だとし、「しかもこれは茶の湯だけの問題ではあるまい。いずれの道にも通ずることだ。外見のてらいばかりで事足れりとするのが、特に戦後の風潮だが、心に自信のない証拠である。人の見る目や、人の思わくばかり気にしているものは、何事も成し得ない病弱な人間である」と述べている。

 「山上宗二記」は、死を予覚して丹念に筆記したものだというが、彼は果して二年後に斬刑に処せられた。利久の切腹に先立つこと一年。ときに四十八歳であった。利久や宗二の茶は、死に直面しての道であった。

 さて次に引く高村光太郎の文にも、胸中がいかに重大視されているかをまざまざと知らされる。

 其れが何等の瑕瑾(かきん)無く巧妙に出来ていても、そして相当に情趣があり、魅力があっても、其の作品の背後に作家の高邁な精神力が潜んでいなければ、みな無駄なものになってしまいます。眼に見えるものきり感じられない作品は生きていません。少くとも浅くて軽い。魂のない仏は仏ではないわけです。元来精神力の稀薄なものからはどうしても栄養不良の藝術しか出て来ません。そういう藝術は人の心を打ちません。人の心を高めません。却って人の心に媚び、人の心を低めます。見る者におもねる藝術は大凡下等にきまっています。背後にあるもののなまなまと感じられる作品は貴い。かかる作品は()かれたもののように不思議です。幾千年の後になっても作家の心が生霊のように観る人を捉えます。そういうのを指して不朽の作というのでしょう。只の巧拙の問題ではありません。巧拙とは全く別個の事に属します。精神の仕事です。此の精神の仕事が優れた彫刻的表現と融合してはじめて立派な藝術となるのです。優れた彫刻は彫刻を感じさせながら同時に彫刻を忘れさせます。何かしら根源の力と美とを直接に心に送ります。背後にあるものこそ至上のものです。

 このように光太郎は作品の背後に在るものを重んじ、至上(、、)()もの(、、)とまでいっている。その背後にあるものとは作家の胸中にほかなるまい。かつて山本健吉が、「文壇的倫理の崩壊」と題する文を書いて、背後にあるものをもつ戦後作家について語った。武田泰淳には史記の世界があり、椎名麟三にはキリスト教があり、野間宏にはコミュニズムのあることを述べて、その作品の意義を評価したことを思い出す。

 光太郎は、作品の背後の精神を強調しているが、しかし「精神の仕事が優れた彫刻的表現と融合してはじめて立派な藝術となる」という点を見落してはならない。もとより精神の高さのみで藝術は成立せず、作品として具体化されるためには技術によらなければならぬ。段玉裁のいう胸中と執筆の法という二条件は、光太郎においてまた軌を一にする。

 光太郎はまた「すぐれた彫刻は彫刻を感じさせながら同時に彫刻を忘れさせる」と、甚だ意義深い見解を示した。まことにすぐれた作品は、その領域を超えて、道の根源に通ずるのである。書もまた書を超えてこそ真に書たり得る次第で、すぐれた書はそれが書であることを忘れさせる。その背後に在るものの直撃にあうからである。その背後に在るものがすなわち胸中の問題なのである。田辺古邨翁もよく胸中ということをいわれた。翁は最晩年の書論において「すべての書がその人の人間内容によって定まる」と述べられたが、その人間内容とは、光太郎のいわゆる「背後にあるもの」であろう。

 芭蕉は、西行、宗祇、雪舟、利久等の藝術に貫道する一なるものを見、己れの文学を、一なる根源に通ずるものとした。芭蕉の俳諧がよく俳諧を超える所以である。書もまた、貫道する一なる本流を掘り当てなければ、本格のものたり得ないのである。良寛が、わが詩は詩ではない、わが詩が詩でないことがわかる者であってはじめてともに詩を語ることができる、という詩を詠じているのは興味深い。良寛もいわゆる詩を超えたところに本格の詩を見ていたのである。

 ロダンの「遺言」に「藝術家たることの以前に人間であること。真の雄弁は雄弁を笑う、とパスカルは述べた。真の藝術は藝術を笑う。私はふたたび、ウージェヌ・カリエールをここにその例として挙げる。展覧会場において大多数のタブロオは画であるに過ぎないけれども、彼のものはその間にあって、恰も生命に向って開かれた窓のように思われた」というのも、同じような趣意であろう。

 なお技術と胸中とを説いたものに武蔵の「五輪書」がある。この書は、身の構え方、足の踏み方、目の付け方等について詳しく具体的に説かれているが、一方また「兵法心持の事」というような条項があり、胸中について語っている。その「心を広く直にして、きつくひつぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心を真中におきて、心を静にゆるがせて其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし」というあたり、まことに兵法書たることを忘れさせる名論であって、およそ高度の行為を遂ぐるための普遍の心的状態を教えているように思う。この文を「能々吟味」すれば、まさにそのまま書法の心持を説くごとくであり、書するとき、心をきつくひっぱっては駄目であり、さりとてたるんでいてもなおだめ、心がかたよっていては無論いけないし、心は静かにゆらいでいなければ働きはできない。そして一気貫注してゆらぎやむ間のないことが大切である。

 武蔵はまた「心の内にごらず、広くして、ひろき所へ智恵を置べき也。智恵も心もひたとみがくべき事専也」と、胸中を純粋にし、高めるべきことを教えている。そして「五輪書」の終末は次のような文をもって結ばれる。

 実の道をしらざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれは慥なる道とおもひ、よき事とおもへども、心の直道よりして、世の大かねにあわさせて見る時は、其身其身の心のひいき、其目其目のひずみによつて、実の道にはそむく物也、其心をしつて、直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、ただしく明らかに、大きなる所をおもひとつて、空を道とし、道を空と見る所也、云々。 このように武蔵は「心の直道」を根本として、「実の道」を悟得すべきことを説いてやまぬ。そして真実の道を知らぬ者どもが、我流を立てて得意然としていても、世間の広大普遍の曲尺にあわせて見ると、何とゆがんだ、邪なものであることがはっきりする。それは自我の勝手身びいきに過ぎず、実の道には背くのだと説くのである。まことに武蔵のいうように、われわれは「ただしく明らかに、大きなる所をおもいとって」書の本質を見究めねばなるまい。