第五章 用具観

 「時を得るは器を得るにしかず」といわれるように、書は用具、用材のよいものを用うるにこしたことはない。空海も「良工は先ずその刀を利にす、能筆は必ず好筆を用う」といっている。

 用具用材はまたこれを生かす工夫を要する。そのためには用具用材の一々について検討するとともに、それらの関係を統御することが大切である。「才葉抄」に「ことさら手は、筆硯紙墨四つの物相叶いて成るべきなり」という所以である。

 生かすといえば、「翰林禁経」に九生法として、生筆、生紙、生硯、生水、生墨、生手、生目、生神、生景が挙げられている。これを生かすものは人である。結局のところ書は人であるから「射のあたらざるは弓、罪なし。矢、罪なし。鵠、罪なし。書の工ならざるは筆、罪なし。墨、罪なし。紙、罪なし」〈呂新吾〉と覚悟せねばなるまい。

 用具とは入用の道具と解される。金原省吾は、道具は人と物との中間に位置し、道具が物に近づくのは西欧の傾向であり、東洋は道具が人に近づく傾向をもつという。「考槃余事」に、古人は筆を重んじ、用いて敗れると土にうずめた。今人はこれをうちすてておくが、それは雅厚でない。かつて趙光逢が川のほとりで一つの磚を見つけた。その上に、「(こん)友退鋒郎、功成りて髪鬢の霜、塚頭に馬(りょう)を封じ、敢て恩光にそむかず」と題してあった、というようなことが記載されている。筆に対する、このような気持を考えると、道具が人に近づき、ほとんど人に吸収されてしまった感がある。

 また用具の扱いに関する古人の記述の中に、硫黄酒を用いて筆を養う(、、)、ということがある。東坡は黄連を煎じて用い、山谷は川椒と黄蘖を用いて筆を蔵するを善しとしたという。屠長卿は「養研」について「およそ硯池の水は乾かしむべからず。日ごとにかえるに清水を以てすれば石潤を養う(、、)。また墨を磨るところは水を貯うべからず」という。「雅厚」といい、「養う」というところに、用具への愛情がこめられている。

 「枕草子」百九十九段の文章は、書道用具論とも見られる内容である。用具のもち方、使い方、置き方、始末のさま、乃至用具への心入れなどに及んで細やかな描写がなされている。

   硯きたなげに塵ばみ、墨片つ方に、しどけなく磨りひらめて、頭大きになりたる筆に、笠さしなどしたるこそ、心もとなしと覚ゆれ。よろづの調度はさるものにて、女は、鏡、硯こそ、心のほど見ゆるなめれ。置口のはざめに塵ゐなど、打ち捨てたるさま、こよなしかし。男はまして、文机清げに押しのごひて、重ねならずば、二つの懸子の硯の、いとつきづきしう、蒔絵のさまも、わざとならねどをかしうて、墨、筆のさまなども、人の目留むばかりしたてたるこそをかしけれ。とあれどかかれどおなじ事とて、墨塗の蓋われたるに、片し折れたる硯すゑて、わづかに墨の磨られたる程いささか黒みて、その外は瓦の目に随ひて入りゐたる塵の、この世には払ひがたげなるに、水うち流して、青磁のかめの口落ちて首のかぎり穴のほど見えて、人のわろきなども、つれなく人の前にさし出づかし。人の硯を引き寄せて、手習をも文をも書くに、「その筆な使ひ給ひそ」といはれたらむこそ、いとわびしかるべけれ。うち置かむも人わろし、なほ使ふもあやにくなり。さ覚ゆること知りたれば、人のさするもいはで見るに、手などよくもあらぬ人の、さすがに物書かまほしうするは、いとよく使ひ固めたる筆を、あやしのやうに、水がちにさし濡らして、「こはものやあり」と、()()に細(びつ)の蓋などに書き散らして、横ざまに投げ置きたれば、水に頭はさし入れて伏せるも、憎き事ぞかし。(以下略)

ここに身辺の揮毫用具類に対する、清少納言の細心にして厳しい態度が知られる。

さて有用の具がその用を超出して、一つの藝術品たり得たものの一つに硯がある。名硯

は磨墨、潑墨などの本来の効用において十分まさっていながら、高い響と深い光沢を有し、温潤味をたたえ、品位と貫禄をそなえている。天然の美材を採取し、高雅な姿形に造作し、ときに見事な彫文をほどこし、銘を刻す。まさに天人合一の藝術品である。

いったい実用のために発して、はるかに高い藝術品に至った代表的なものは武門の器具であろう。人を斬るための刀はやがて武士の魂とされ、人心を収攬する神器にまで高められた。鐔にしても、堅固な実質を必須条件としながら、あの限られた空間に作者の全霊をちりばめた。これらはもはや器具の域を脱して、人の心を高める存在となった。書においても、用具が用具以上の意義をもって、深く人の心に働きかける点を忘れてはならない。

なお文雅の士の清玩に供せられるものに「琴」がある。それは直接の揮毫要品ではないが、境涯を養い、趣を得るために書室中に一床を懸けよという次第である。「ただ琴中の趣を得るのみ、何ぞ弦上の音を労せん」とは陶淵明の詩句である。「燕間清賞箋」に「琴は書室中の雅楽なり。一日として清音居士に対して古を談ぜざるべからず。もし古琴なければ新琴また須らく一床を懸くべし。能く操する、総に善く操せざるを論ずるなし云々」と記されている。

さきにいうように用具とは入用の道具であるが、その道具とは本来仏教の用語で、およそ学道を助けるための物品のことである。書道においても、学道の立場から用具への省察がなされねばなるまい。私は、道元の「典座教訓」の中に用具観の究極を見る。「典座教訓」は道元みずから「この説似は古来有道の仏祖遺すところの骨髄なり」というほどの内容である。

道元は「物色を調辯するの術は物の細を論ぜず、物の()を論ぜず、深く真実の心、敬重の心を生ずるを詮要とす」といい、「凡眼を以て観ることなかれ、凡情を以て念うことなかれ。一茎草を(ねん)じて宝王刹を建て、一微塵に入って大法輪を転ぜよ」という。

また「眼睛なる常住物を護惜せよ」という仁勇禅師の語をひき、己れの眼のように物を大切に扱うべきことを教える。なお「飯を蒸す鍋頭を自頭となし、米を淘りては水これ身命」と切に物我一如の弁道を説くのである。さらに道元はいう「物来って心に在り、心帰して物に在り、一等に他と精勤弁道するなり」と。これこそ書道用具論の根幹である。  学書の場において、用具用材をとり扱う具体的行為を通して、真実の弁道が実践できることを思うべきである。