見るということ

 鑑賞の大事は、己れの内部に事件がおこることである。或る鑑賞によって書業の上に決定的な影響をうけたり、生き方が根本から変革されるようなことがあり得る。

 梁山舟は「学書三要」を説き、その一つに「多見」を挙げたが、その「見る」という一々の経験をどう経験するかが問題である。鑑賞とは要するに見ることである。

 書作品を見て、その美しさを味わう。古典を見て古人の情操にふれ、みずからの心を浄化する。見ることによって書の価値認識の領域を拡大する。或は作品の背後の藝術精神を看破し、或は古人の遺墨を法財として参究求道する、等々のことはすべて見るという経験のそれぞれの姿である。見ることの経験を積むうちに、漸次的向上がもたらされたり、忽焉として重要な内的事件に遭遇したりする。

 古人は「みる」ことの意義や、その深浅について詳しく考察している。

 支考は、「蕉翁二十五カ条解」において、「見」「視」「観」「察」を分って次のようにいう。「すらすらとみるを見るという。手にとりて委しくみるを視るという。心相をみるを観という。観察は意同じくして、細かに分れば、観は姿を見て、察は情を見るべし」という。

また山鹿素行は「視は眼を以て見定むることを言い、観は見定めたるところを心に観じ、見たるところの理をまた心にて校量し、その理を極むることを言い、察は視・観の二つをはなれてその本にかえり、目に見るところ心に観ずるところをはなれて察することを言う」〈兵法奥義〉といっている。

 宮本武蔵は、五輪の書において、「観の目つよく、見の目よわく」という。兵法三十五箇条「目付之事」の段にも、「目のおさめ様は、常の目よりすこし細様にして、うらやかに見るなり。目の玉を動かさず、敵合近くとも、いか程も、遠く見る目なり。その目にて見れば、敵のわざは申すに及ばす、両脇までも見ゆるなり。観・見二つの見様、観の目つよく、見の目よわく見るべし」とある。

 右の三者皆「観」を重視している。天台智()は、仏法は要するに「止観」を出でないとし、観は惑を断ずるの正要であり、神解を策発するの妙術にして、智慧の由籍であると説いている。           

 〝観〟について、小林秀雄も次のような思索を示した。「カントの純粋理性批判の一番大事なまた深い思想は、形而上学は、ディアレクティックによっては不可能だが、何ものかによって可能であるという思想だ、とベルグソンは考える。それはVisionによって可能であるとベルグソンは言う。このVisionという言葉は面倒な言葉だ。生理学的には視力という意味だし、常識的には夢、幻という意味だが、ベルグソンがこの場合言いたいのは、そのどちらの意味でもない。Visionという言葉は、神学的には、選ばれた人々には天にいます神が見える、つまり見神というにVisionを持つという風に使われていたが、ベルグソンのいう意味は、そういう古風な意味合に通じているのである。これを日本語に訳せば、観という言葉が、先ずそれに近い」「拡大された知覚は、知覚と呼ぶよりむしろVisionと呼ぶべきであり、見るものと見られるものとの対立を突破して、かような対立を生む原因に推参しようとする現実の能力である」と述べる。

 氏はなお仏教の観法に言及し、それは「単なる認識ではなく、人間の深い認識では、考えることと見ることが同じにならねばならぬ、そういう心身相応した認識に達するためには、また心身相応した工夫を要する。そういう工夫が観法」であるという。そして「仏教者の観法という根本的体験が、審美的性質をもっていたから、観法はそのまま画家の画法に通じ、詩人の詩法に通じた」「観は、日本のすぐれた藝術家たちの行為のうちを貫通しているのであり、私たちは彼らの表現するところに、それを感得しているということは疑えぬ」というのである。

 美学においては、「観照」の語を用いて、美的享受を意味する説もあるが、〝観照〟という語は元来仏典の中に用いられてきたものである。たとえば、肇論に「観照般若照㆑事照㆑理故云々」とあり、六祖壇経には「若起㆓正真般若観照㆒、一刹那間妄念倶滅、若識㆓自性㆒一悟即至㆓仏地㆒、善知識、智慧観照、内外明徹、識㆓自本心㆒」とある。丁福保の「仏学大辞典」によれば、観照は「智慧を以て事理を照見」することである。その本来の意味よりすれば、観照は鑑賞を深め正しくする道である。

 空海が「文鏡祕府論」に「即ち須らく心を凝らしてその物を目撃すべし。便ち心を以てこれを撃ちて、深くその境を穿つ」というのはまことに観照そのことにほかなるまい。また「性靈集」には観照に関して「能観の心、所観の境、無色無形」とある。空海は深く観法を修めたであろう。その詩文の随処にこれをうかがうことができる。次にいくつかの例を挙げてみよう。

  ○能く観じて取らざれば法身清し。
  〇五綴持錫して妙法を観ず。
  ○妙観智力もて即身成仏す。
  〇三平等の観何人か行ぜざらん。
  ○覚眼を除蓋にひらき、心月を定観に朗かにす。
  ○林藪に吟じて観に住す。
  ○華蔵を心海に観ず。
  ○持観の暇しばしば古人の至意を検す。
  ○窟観の余暇、時に印度の文を学ぶ。等々

 仏教のいわゆる「五眼」とは、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼をいうが、的翁老師は、慧眼と法眼をもつことが心眼をひらく所以であると説かれる。慧眼とは智慧をもって現象の真相をみる眼であり、法眼とは個々の存在の理法を観ずる眼であるという。慧眼・法眼が心眼となる。心眼こそよく正見し得るまなこであり、鑑賞眼の根本でなければならない。鑑賞眼は書業向上の推進力である。鑑賞眼は見識であり、その人の全人的力量である。