用筆と真態

 包世臣は「結字は用筆にもとづく」といった。書の造形は、ほとんど一定の順序に従って、点画を打ち出しつつ即決形成してゆくのであるから、造形は用筆をふくみ、用筆のところすなわち形体を生む次第で、造形と用筆とは切り離すことができない。

 馮班は書の〝真態〟ということをいった。真態というといかにも生きた存在者という感がある。地図に見る航空路線は赤く細い一様の直線で標示されているが、実際の飛行は気圧と風力によって、上下左右にゆれ、また速度も違う。折々の光線を受け、雲間はるかに山河を望む。これが飛行の真態である。書の点画は単に方向や位置を示す一様扁平のものではなく、生きた用筆によるが故にその造形は真態として現成するのである。生きものは血が通い、体温があり、弾力をもち、呼吸し生動している。馮班はまた古典を「死学」せず、古人の「活処」を看よともいっている。

 用筆は、身体と心と、筆使いの技術とによる働きである。さらに用具用材、天候、環境等が微妙にかかわる。今ここに筆を執って一画するとき、筆者の気宇、思想感情、集中力、揮毫の技術、身体の状態、筆の性能、墨の磨り方、書くまでの時間、紙質、湿度等が複雑にかかわり合ってその一画を決定するわけである。少し大げさにいえば、用筆は宇宙を提げての全体作用である。しかし一瞬を生きる用筆は、一切の分別意識を忘却する体験の行為でなければならない。川村理助翁が名著「体験の生活」において、「体験状態には自覚が無い」というのは体験者の貴重な省察である。用筆法を詳述した包世臣も、「直来直去はすでに過折収縮の用を備う。観者はその落筆の飛ぶが如きを見て、また筆の先後の故を察せず。すなわち書者も自覚せざるなり」というのである。これが用筆の実際であろう。  黄山谷が「張長史の折釵股、顔太師の屋漏法、王右軍の錐画沙印々泥、懐素の飛鳥出林、驚蛇入草、索靖の銀鉤蠆尾は同じくこれ一筆にして、心、手を知らず、手、心を知らざる法のみ」というも同じくその「自覚せざる」底の消息を語るものであろう。高村光太郎もすぐれた造型美論を展開しながら、「造型藝術は言語道断の藝術である」「言詮を待たず、考察を要せず、まったく問答無用の藝術であり、速戦速決の尤もなるものである」というに至った。