書の条件
古人は、文字を書いて、それが「書」というべきものになるための条件を提示している。まず東坡は「書は必ず神・気・骨・肉・血あり。五者一を闕けば、書を成すと為さず」という。王虚舟は「筋・骨・血・肉・精・神・気・脈の八者全具して而る後に人と為すべし。書もまた猶かくのごとし」といって東坡の提言にさらに三者を加えた。包世臣は、「筋骨血肉」を解説して、筋は鋒の為するところ、骨は毫の為すところ、血は水の為すところ、肉は墨の為すところといっている。
劉熙載は、「高韻」「深情」「堅質」「浩気」の四条件を挙げ、「一を欠くも書をなすべからず」と断じている。高韻とは高い響きである。最澄の書などに静かに接するとき、まことに高韻が実感されよう。黄山谷は、この韻を重んじ、「凡そ書画はまさに韻を観るべし」「書画は韻を以て主となす」といっている。劉熙載は、いまだ俗気の尽きないものは、韻という問題からほど遠いと説く。また荊浩は絵画の六要の一つに「韻」を挙げ「韻なるものは跡を隠して形を立て、儀を備えて俗ならず」という。中村茂夫は、伝徽宗の「水仙鶉図」について、その「無限空間の暗示は、黄庭堅のいわゆる韻であり、それがこの画の生命である」といい、韻とは「絵画の包蔵する藝術的生命の深さ」であると述べている。梧竹は書の余韻について「風神縹渺のところひとえに余韻あり」といったが、縹渺たる風神の高さすなわち高韻であろう。そして高韻は品格の高さでもある。
孟子は、惻隠の心は仁の端であると説く。機にあたって直下に発する惻隠の情は誰しもその胸奥にひそんでいるに相違ない。それは君子仁人の温情と同じ分子構造であろう。ただその深さや豊かさの差は限りを知らぬところである。書は、われわれが本来具有する「情」を益々深く純なるものにしてゆく道でなければなるまい。そしてその深められた情が書作品ににじむところに価値を認めることが大切である。今日何と刻薄な書が多いことか。
第三の堅質とは、堅固なる質である。書の線質は堅固でなければならぬ。堅質はまた堅固な構造をも意味する。堅固な構造とは健全な骨骼を具有していることである。故に「堅質」とは書の健康性といってよかろう。
第四の浩気とは広く大いなる気である。劉氏はまた「傲岸磅礴の気」ともいう。気については別に一章を設けて詳述する。 先人の提示した条件は、書の要素であり、また書の価値である。創作は書的価値の実現にほかならぬ。