題材の意味

 書の創作は文字をとり扱う。文字は一々意味をもち、意味は文字の形体と不離である。したがって創作の動機において、或はその構想の間にあって、或は創作遂行の途中において、文字、文章の意味内容は微妙なかかわりをもって或は作者の心内に()漫し、或は強くのしかかってその心気をうつ。また作者が、語句の意味内容乃至その象徴する趣意に深く参入することによって、かえって創作のエネルギーを得る場合もある。

 高村光太郎は、「書は純粋な造型的諸要素のみでは律しられない文字という意味を表示する性質の題材を取り扱う」「良寛の書のように、一読ではとても解読し得ないものでありながら読めないままに十分書の美のわかる例もあるが、これとても純粋なアラベスクとして観るのではなく、その意味を知ろうとする努力が観者の側には最後まで残る」といい、また「書の魅力は実は意味と造型とのこんぐらかりにあり、書の深さはこのヌエのような性質の奥から出てくるので、書の東洋的深淵という秘境の醍醐味は、外国的抽象美には求められない」といっている。よく書の本質、特長を正視した意見である。

 題材の意味内容とのかかわりについては孫過庭の名論がある。王羲之の書作が、書く文章によって、それぞれ別種の趣を持つことを述べたものである。羲之が楽毅論を書くと、その書に多く怫鬱の情がただよう。東方朔画讃を書くと珍奇の趣を呈する。黄庭経には虚無感があり、太師箴の場合は縦横争折している。蘭亭は超脱的な雅味があり、告誓文には、胸がふさがり、心が痛むようなところが出ているという。

 王澍は、顔魯公「告豪州伯父稿」に跋して、「この告伯父は、心気和平、故に容夷婉暢にしてまた祭姪の奇崛の気なし。いわゆる『楽しきに渉ってはまさに笑い、哀しきを言いてはすでに歎ず』。情事同じからざれば書法またしたがって以て異なる。応感の理なり」と述べ、孫過庭の思想を継承するごとくである。題材の意味内容を一如に体感し得るものでなければ「応感」の現象はおこるまい。書する題材に応じて、筆者の内発する情感が異なる。そのときの情感が、筆勢となり、筆意にあらわれ、リズムに響き、ひいては姿形を決定し、字外ににおう。その一碑一面貌のところにまことの名手を見ようとする。こういう考えが中国の書学者の間に綿々と流れてきたのである。   王澍はまた「送裴将軍詩」について、「筆力雄偉、心を驚かし、魄を動かすことかくの如し。蓋し、裴公の奔雷掣電の奇と、魯公の忠義激昂の気と、ふたつながら相激発するに由るならん。故に覚えず詞翰縦逸して、逼圧すべからず、後世その詩を読み、その書法を観れば、尚廉頑懦を立たしむるに足らん。則ち当日公の忠肝義胆、光を日月と争いしこと知るべし。(中略)一段の忠義鬱勃の気ありて、筆墨の外に発するに非れば、未だなおここにいたらず、その本をもとめずして、その面目に倣うは、また未だ善く学ぶものとなさざるなり。古人を学ばんと欲するものは、この語を知らざるべからず」といっている。意味と造型とこんぐらかった、深淵において名品の成立する事情を見事に論述している。書においては、往々とり扱う題材が一つのすぐれた藝術作品である。書は無論藝術作品たる題材に仕えて、その趣意の表現につとむるものでない。むしろそれをかかえ、互いに相激発して表現を高めるところに書の特色があるのである。