創作の成立

 臨書に対して自運という語がある。自運とはおよそ臨本なくして書することであるから、創作への試みも、古典の倣書に近いものも、類型に堕した書も、ただ恣意に過ぎぬものも皆自運のうちである。創作とは本来個性的創造であり、またその作品を意味する。しかし今日は自運を創作と称する場合が多い。

 いったい、すでに制定された文字をもって、またすでに成立している書体によって、書の創作は果して可能であろうか。その答は、良寛、大雅などの書跡を見れば明瞭であろう。両人とも既成の文字、書体によって、かつてない独自の表現を遂げている。なお蒼海、梧竹、秋草等の作物を見るならば、いよいよ明らかに書における創作の事実が認められるであろう。

 文字は社会的共有物であり、したがって普遍の約束を持つ定形である。それが人の手によって書かれると、筆者それぞれの線質、姿形となり、各々別趣の筆意があらわれる。この意味において文字は不定形である。文字が定形にして且つ不定形であるところに、書の創作は成立するといってもよい。  秋草道人は「東洋文藝雑考」と題する講演において、たとえば「は」の「」を長く書くか、短く書くかというのが藝術になるのだと語っているが、そういうほんのちょっとした工夫が創作につながるのである。盛岡の銘菓「黄精飴」は、王竹姜簃という百合科に属する多年草の草根を五月ごろから秋にかけて採集し、煎汁を作って飴と混ずるときく。かすかな野草の香りが非常に快く、独特の味わいである。これもまたわずかな工夫の成功した創作例といえよう。人はいったいちょっとしたほろ苦さや、適度の渋みを賞味する。ただ苦いだけのものは避けられる筈で、その苦味をいかに適量にもちこんで、ほろ苦い妙味として人々の舌にのせ得るか、そこに創作のカギがある。苦味の程度は「ほろ」でなければならず、それは過不足のない微妙な決定である。書の、点画の長短、布白の分間等においても、ごくわずかなところに創作が成り立ち、美はわずかなところで崩落する。