臨学の意義

 心身を挙げての臨書行為は、いわゆる動中の工夫としての意義をもつと考えられる。いったい臨学(臨書を中心とする)の意義効用については言語に尽せぬところであるが、一応左記のように整理してみた。これらの条項は互いに相関連し、複合するのが実際であるが。

一、古人の情操の動きの追体験

二、名作からの影響

三、見体験の深化

四、筆癖偏向の矯正

五、用筆および構造法の修得

六、創作の基盤形成

 なおはじめの二ヶ条について少しく加筆するが、まず影響ということについて小林秀雄の名言を引用しておく。「世間で影響を受けたとか受けないとかいっているような生やさしい事情に影響の真意はない。そういうものは、単なる多少は複雑な模倣の問題に過ぎぬ。真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。心を掻き廻されて手も足も出なくなることだ。こういう機会を恐れずにつかまなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない。ただ小ざかしい批評などして名作の前を素通りする」と。至極共感する意見である。真実に道を求めつづけていると、いつかそういう機会に遭遇し、激烈な体験をするのである。

 次に第一に挙げた「古人の情操の動きの追体験」であるが、古典筆跡の点画は、筆者その人のリズムによって打ち出されたものであり、点画の処々にその人独特の筆意があらわれ、また潜んでいる。このリズムなり筆意なりを古人の情操の動きといってよかろう。古典筆跡の臨書臨学は、筆者古人と同じ順序で運筆或は手模し、その筆意とリズムに冥合するわけであるから、おのずから古人の情操の動きを追体験することになろう。また点画の間ににおう風韻にふれて、古人の情操に薫染する。こうして無意識裏に学人の精神が引きあげられる。ここに書道が人間形成の上に果たす役割が認められるであろう。  古人の情操の動きを追体験することによつて自己が浄化されるといってもよい。臨書経験についての先人の記述に、臨書によって悶を遣った、或は悶を破ったということがある。また「修禊の一法」として臨書を行ったとも述懐されているのである。