形似超脱について

 臨書におけるも形似超脱の議論は多い。次にいくつかの例を挙げよう。

〇帖を臨するは(にわ)かに異人に遇えるが如し。必ずしもその耳目手足顔を()ず。而してまさにその挙止笑語、精神流露の処を観るべし。荘子のいわゆる「目撃して道存する」ものなり。〈董其昌〉

〇臨帖はその形を得るにあらず。而してその神を得るにあり。しからざれば則ち終に優孟の衣冠に属す。古人の書を学ぶに、形摸を学ばず、ゆえによく自ら家を成す。〈楊賓〉

〇古人の書をもって、一々模画するは、小児の仿本を写すが如し。すなわち形似のみ。豈また我あらんや。(中略)故に李北海云く「我を学ぶものは死せん。我に似るものは俗なり」と。正に世の木仏に向って舎利を求むるもののために、痛く一鍼を下せり。〈梁山舟〉

〇およそ各家を形摸するは、その用筆を竊取するに過ぎず。形似に規々たるに非ざるなり。近世一家を臨する毎に、ただその筆画を摸仿するのみなり。用意神に入るに至っては、全く領会せず。形似を得るものは尽くるありて、神味を領するものは窮りなきを知るを要す。〈臨池心解〉

〇孫虔礼いう「これを学ぶものは精を貴び、これに擬するものは似を貴ぶ」と。およそ古人を臨するには、始めは必ずその似を求む。久々にして(はく)換し、貌をわすれて神を取る。則ち相契すること牝牡(ひんぼ)()(こう)の外に在り。これを神似という。宋人いう「顔の書は褚を学ぶ」と。顔の褚における、絶だ相似ず。ここに臨古の妙を悟るべきなり。〈閣帖考正〉

〇褚河南の穎上黄庭蘭亭は、乃ち入神となす。その形貌を観れば一筆の似たるものなし。而して神にしてこれを明らかにすれば独り天則を見る。これいわゆる自ら清浄法身を成すものか。臨古はここに至って方に神解に入る。〈虚舟題跋〉

臨書がやがて形似を超脱すべきことは、右の諸論に見る通りである。ロダンの「遺言」にも「浅薄な正確さというものが存在している」といわれるが、藝術は本来、単なる正確さを問わぬものであろう。  さて臨書は形似超脱からさらには臨倣の跡を脱出することがもとめられる。「学書は臨古より入らざれば必ず悪道に堕つ」といった董其昌は「蓋し書家の妙は、能く合するに在り。神は能く離るるに在り」という。この消息を王澍は〝舎〟といい、劉煕載は〝損〟という語をもって説いた。そして董其昌は、「離れんと欲するところのものは、欧・虞・褚・薛の諸名家の伎倆にあらず。直に右軍老子の習気を脱去せんと欲す云々」という。臨学して得た最も貴重なものをも棄却せよという。もとよりそれは甚だ難事であり、蔣()も「学書は臨古より難きはなし」という所以である。しかし古人の蹤跡を脱去することはそこに真に己の本領を築くことにほかなるまい。