第二話 趙州(一)
次のような問答がある。
僧、趙州に問う「久しく趙州の石橋と響く。到り来ればただ略彴を見る」
趙州云く「汝、ただ略彴を見て、且つ石橋を見ず」
僧云く「いかなるかこれ石橋」
趙州云く「驢を渡し馬を渡す」
〔趙州〕趙州(地名)の観音院に住した、従諗禅師のことを普通〝趙州〟と呼び馴れていた。唐の代宗の大暦十三年(七七八)に生れ、昭宗の乾寧四年(八九七)に、百二十歳で死去したという。「禅中の聖」と言われ、その禅風は「唇皮上に光を放つ」と評された。趙州は南泉普願禅師の法嗣である。『趙州行状記』によれば、趙州がはじめて南泉禅師に参謁したとき、南泉は方丈に身を横たえていた。趙州の来るを見て、「どこから来た」ときく。趙州は「瑞像院から参りました」と答える。南泉云く「それでは瑞像を見ているか」と。趙州云く「いえ、瑞像は知りませぬが臥如来におめにかかりました」。南泉は起き上がった。そして問うた。「汝は師匠があるのか。」これに対し趙州はこう答えたーー「仲冬厳寒、伏して惟れば和尚尊体万福」。お寒い折ですが老大師にはご機嫌うるわしく、何よりであります、と。師匠は眼の前の南泉禅師でござると決め込んでしまった。南泉はもとより趙州の資質を見抜いたであろう、維那を呼び「この沙弥、別処に安排せよ」という次第である。
〔石橋〕趙州の石橋は、初唐に李膺が造ったという。天台山の石橋、南岳の石橋と共に、天下の三石橋と称された。
〔略彴〕一本の木を渡しただけの橋。
さて、初めにかかげた問答について見よう。
一人の僧が趙州和尚のところにやって来て言うには「名声天下にとどろく趙州は、どんな大和尚かと思っていたが、逢って見れば何ということはない、ただの老いぼれ爺でござるわい」。趙州は答えて言う。「お前はわしのシワ面だけしか見えんようじゃな」。そこで僧はさらに「では一本橋でない本当の石橋、和尚の本領はどんなものですか」と問うた。趙州は言った。「驢を渡し馬を渡す」と。趙州の石橋は車も通れば馬も通る。善人も渡せば悪人も渡す。あらゆるものを渡すのだという、ここに趙州の大いなる悲心が見られる。雪竇はこの答話をたたえて「孤危不立道方高」と詠じた。
因みに『五燈会元』には、この僧さらに「如何なるかこれ略彴」と問うている。細い丸木橋の場合はどうします、まさか驢を渡し馬を渡すわけにはゆきますまい、と突っ込んだ。趙州は「個々人を渡すーー一人一人わたすぞ」と答えた。
また、こんな問答が伝えられる。ある僧、趙州にむかって「和尚のような解脱を遂げた方でも死後地獄に落ちるのでしょうか」とたずねた。趙州は「真っ先に落ちる」と答えた。そして驚いている僧に言った。「先に行って待っていて、落ちてくるお前たちを助けるのだ」