準備
入門書道講座 楷書編 東京学芸大学名誉教授 吉田鷹村著
準備編
一 身体のこと
書道は身心学道です。まず身体を正し、呼吸を整えることが大切です。椅子に腰かける場合は、やや浅くかけ、両足を自然に開いて、肩の力を抜きます。そして脊梁骨(腰ぼね)を突っ立てることが最も肝要です。どこにも力を入れないように。もし力を入れるのでしたら足の親指、土ふまずに入れてください。
このようにして静かに呼吸していると自然に下腹部が充実してきます。机の高さは、およそ臍(へそ)のところぐらいになるよう、坐布団などによって調節してください。
二 筆の持ち方
親指と中指とで、穂先から九センチほどのところをスッと持つと筆は直立します。そして食指を添えるとやや安定します。くすり指は、内側からささえて、爪が筆管に当たるようにしてもいいし、中指と並べて外にかけてもよい。小指はくすり指に添えます。小さな字を書くときなど、食指だけを外からかける方法もあります。
書くときは、掌を虚にし、手くびを上げて、脇の下にボールでもかかえこむように、肘を張って大きく運動します。立って書くこともあり、また畳の上に紙をのべて書く場合もありますが、その時に随い、その場に応じて、筆を持つ位置や、手の形は、おのずから変ってきます。宮本武蔵が、刀は斬りよきように持てと言ったといいますが、さすが達人の言であります。筆の持ち方も結局はそういうことになります。
三 用具について
1 筆
まずは半紙に二字書くのに適当な大きさのもの、筆鋒のいちばん太いところの直径一センチ乃至一・三センチ、鋒の長さはおよそ五・五センチぐらいの、ごく普通の筆を用意してください。
はじめによく洗って糊を落して下さい。墨は筆鋒全体につけ、特に筆鋒の上の部分に墨を貯えるよう工夫するのです。使用後洗う際に、筆毛がからみ合わないように注意し、よくととのえて、正しい円錐形にしておくことです。あまり間をおかずに練習する場合は、洗わずに筆立に立てておくとやわらかくて好都合です。少し勉強が進んで来ると、いろいろな筆を使って見たくなります。そして、それぞれの筆の性能を点検し、それぞれの筆による表現可能の限界をたずねる勉強をしたりします。
2 硯
せめて幅十センチ以上のものが欲しい、あまり小さいと墨をする運動がこせついて、落ちついた気持になりにくいものですから。また、すった墨がすぐいっぱいになってしまうのはとても不便です。
硯はしばしば洗って、石そのものを活かして使うようにしましょう。時には砥石でとぐことが必要です。そうすると、墨も速く濃くすれるし、第一気持がよい。硯の肌が自分の肌と思えるようになるとほんものです。書道は、そういうやさしいこころを引き出す道なのです。
3 墨
今日は、墨液やねり墨などがあり、いわゆるインスタント書道も出来ますが、なるべく墨をすっていただきたい。墨は、油煙墨がよい。
4 紙
はじめは少しキメの荒い、墨がにじむようなものがよい。ツルツルすべって筆がくい込まない紙は駄目です。
5 下敷
ラシャまがいの、やわらかくて、あまり薄くないものを用意しましょう。ある程度大きいものが便利です。
6 文鎮
あまり厚いものは使いにくい。下品なものは避けましょう。
唐の孫過庭という人が、たいへん立派な書道芸術論をのこしていますが、その中に、書く「時」を得ることが大切であることを説いていますが、その後で、「時を得るは器を得るに如かず」ということを言っているのです。用具を非常に重視しているわけです。いい用具を持ちますと、それにつられてつい一生懸命勉強するものです。無論用具さえ上等であれば、それで万事終りというものではありません。孫過庭も最後に「器を得るは志を得るに如かず」とことわっています。
書道は、用具の扱い方が大切な勉強なのです。用具を扱う一々の挙動が、道の実践であるという自覚を持つことが出来れば素晴らしいことです。古人は、「道具類を守ること自分の眼睛の如くせよ」と教えています。物我一体の理に眼を開きたいものです。
四 墨をする
よく洗われて、石の肌が呼吸している硯に、新しい水を落すとき、すでにそこに清々しい世界があります。そうした清々とした経験を積んでゆくことが深い意味を持ちます。
墨は静かにすってください。いろいろな妄念、雑念、かたくなな心、ひねくれた根性を悉くすり込んでしまっては如何でしょう。そうして虚心になり、素直になれば、字を書くためにまことに好ましい心的状態がもたらされたわけでありましょう。そういう心になってこそ、手本を正しく受けとめることも出来るのです。墨をする時間は、しみじみとした人生の一こまではないでしょうか。
墨は濃くすってください。といってあまり濃すぎて筆が動かぬようでは困りますが。墨は炭素と膠で出来ています。その溶解分量が適当でないと、筆毛の働きがにぶり、せっかく毛筆の持つ弾性、開閉の性能が発揮されません。
墨をすってそのまま硯の上に置いておきますと、くっついてしまいますから注意して下さい。使用後は墨についた余墨をぬぐいとって下さい。