第二話 趙州(二)
趙州は「仏は誰人のために煩悩を為す?」との問いに対し、「一切の人のために煩悩を為す」と答えた。釈尊は一切衆生を救うという大煩悩の持主というわけである。
ある老婆が問うた。婆は五障の身であり、如何にしてこれを免れることができましょうか、と。(五障とは、梵天、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏になることができない障り)。趙州は答えた「願わくは一切の人の天に生ぜんことを。願わくは婆々の永に苦海に沈まんことを」と。(〝天〟は天上界。六道の最上位)大拙翁はこの答えに深く共感を示し、しばしば引いて、禅の肝心を説かれた。
なお趙州の学人に対する答話をいくつか挙げて見たい。趙州は禅の急切なところは一問一答の所に在ると言っている。
問「了時底の人は如何」
答「まさに大いに修行す」
問「未だしらず、和尚もまた修行をするやいなや」
答「著衣し、喫飯す」
王陽明詩にいう、「飢え来たれば飯を喫し、倦み来れば眠る、只この修行、玄にして更に玄なり、世人に説与すればすべて信ぜず、却って身外より神仙をもとむ」
問「如何なるかこれ七仏の師」
答「眠らんと要すれば即ち眠り、起きんと要せば即ち起く」
問「昼はこれ日光、夜はこれ火光。如何なるかこれ神光」
答「日光・火光」
問「十二時中、如何か心を用いん」
答「你は十二時に使わる。老僧は十二時を使い得たり」
臨済のいわゆる「随処に主となる」ところであり、雲門のいわゆる「日々是好日」の境界であろう。
問「如何なるかこれ趙州」
答「東門、西門、南門、北門」
まことに広大無辺、八面玲瓏、圜悟はここに「開也」と寸評を加えた。
問「如何なるかこれ和尚の家風」
答「内、一物なく、外もとむる所なし」
問「白雲自在の時如何」
答「いかでかしかん春風処々に閑かなるに」
問「如何なるかこれ定」
答「不定」
問「なんとして不定なる」
答「活物!活物!」
趙州、二人の新到に問う「上座曽て此間に到るや否や」
云く「曽て到らず」
趙州云く「喫茶子」
又、那の一人に問う「曽て此間に到るや否や」
云く「曽て到る」 趙州云く「喫茶子」