第一話 打坐(一)
兀々として打坐するところに禅は存する。道元禅師は、「学道の最要は坐禅これ第一なり」「学人は只管打坐して他を管ずるなかれ。仏祖の道は只坐禅なり」と説かれた。(『正法眼蔵随聞記』)
さて、正しい坐禅の仕方について述べたものに『坐禅儀』がある。坐禅儀に次のように言う。
静かなところにおいて、厚く坐物を敷き、衣服はゆるやかにし、威儀を斉整にして結跏趺坐する。結跏趺坐とは、右足を左のももの上にのせ、次に左足を右足のももの上にのせ、足をくんで坐ることである。あるいは半跏趺坐にてもよろし。これは左足を右のももの上にのせるだけである。
次に右手を左足の上におき、左手の掌を右手の掌の上におく。そして両方の大拇子の面を以て相ささえる。徐々に身体を挙げ、前後左右に反覆揺振して後、正身端坐する。左に傾き、右にそばだち、前にかがまり、後に仰ぐことのないようにする。腰をしっかり立て、あたかも塔のように背すじを伸ばす。ただし、あまりにそりかえると不安になる。耳と肩と相対し、鼻と臍と相対し、舌は上の腭をささえ、唇と歯とをつける。眼はわずかに開き、眠ってはいけない。
気息が調ったら臍腹をゆるやかにする。一切の善悪すべて思量せず。念が起ったら直ちに覚せよ。こうして一片となるのが坐禅の要術である。正しい坐禅は自ら精神爽利になり、法味神を資け、寂然として清楽という境に至る云々。
「ゆったりと、どっしりと、凛然と坐れ」と、しばしば先進の策励するところである。坐禅は、身相をととのえ、呼吸をととのえ、そして心をととのえる次第であるが、呼吸については『坐禅儀』に説くところは甚だ簡略である。よってここに天台智顗の説述を参考にしたい。
気息を調えるにおよそ四相がある。一つは〝風〟、鼻中の息に出入あるもの。第二の〝喘〟は、息に声はないが出入に結滞がある。第三の〝気〟は、声もなく、結滞もないが、出入がこまやかでない。第四の〝息〟こそは、声もなく、結せず、粗ならず、出入綿々として存するが如く、亡きが如く、身を資けて安穏に、情、悦予を抱く。〝風〟を守れば散じ、〝喘〟を守れば結し、〝気〟を守れば労し、〝息〟を守ればすなわち定まる。
村木弘昌博士は、「長呼気によって、血液中の酸素が増大し、筋肉にミオグロビンという酵素を貯蔵する蛋白を生ずるので、疲労を回復し、且つ炭酸ガスの排除が活潑になる」という。村木博士には「大安般守意経」を研究、『釈尊の呼吸法』(柏樹社)という著書がある。
坐禅せば四条五条の橋の上 往来の人を深山木にして 大燈国師
濁りなき心の水にすむ月は 波もくだけて光とぞなる 道元禅師
一切の経は仏のおしえなり 坐禅はじきに仏なりけり 至道無難禅師