はしがき
書を学んでゆくうちに、いつしか禅僧の書にこころ惹かれるようになった。墨蹟を蔵する寺々を訪ねたり、墨蹟に関する書物、図版などをしらべたりした。書道史上に聳立する東坡、山谷らも、師僧について禪を修めていたことも感慨深く知った。また無準師範、大慧宗杲、大燈国師、白隠禅師等、巨匠の真筆を拝見し衝撃をうけた。一切の根源から噴き出して来るような、いのちの力を感じた。書の世界を超えた大きな価値を有する如くに思えた。いったいこのような表現に打って出る禪とは如何なるものかと、関心は深まった。
一方書の実作において、名状しがたい何ものかに拘束されて自在を失うことが屡々あり、この無縄自縛の状態から脱却する手がかりが禪の中にあるような気がしてならなかった。そんな折、松本先生から「こんどの日曜、鉄舟会に講義にゆくが一緒に行ってみては」というお言葉があった。喜んで随行した。まずは大森老師の提唱、かつてない感銘を覚えた。次に松本先生の老子の講義があり、一段落すると、刀剣の権威、山田研斎先生、詩文にも長じた阪本雅城画伯らが実に興味ふかい談論をくりひろげた。
爾来、この珍重すべき会に加えていただき、やがて大森老師に参禅、長い苦修の年月がつづいた次第である。禪は私にとって、書業にとどまらず、人生全体の重要事となった。老師への萬謝限りなく、ただ精進の不足を恥ずる者である。
玄機居士記