固定観念
色のついた眼鏡をかけてはものを正しく見ることはできない道理で、先入観、固定観念は正しい鑑賞を妨げる。ロダンも「悪しき藝術家は常に他人の眼鏡をかける」といっている。楊惺吾は、顔師古の「等慈寺碑」について、「結構は全く魏人に法り、而して姿態横生し、勁利常に異り、一の弱筆なし。直に欧・虞と抗行するに堪えたり。世人は習見に狃るるが故に、宝重することを知らず。而して六朝を尊仰する者は、又限るに時代を以てし、意を唐人に留めず。故に仍ち寂々たるなり」と論じている。まことに「時代を以て限る」のは一つの尺度に執した固定的態度である。また「習見に狃」れて、無自覚的に固定観念を抱くとき正眼をくもらせる。ハーバート・リードは「私はわれわれがまったく自由な気持で絵をみるという仮定から出発したのであるが、これは神をみる条件である心の純潔さほどに稀なことである」という。またヴァレリィに「博物館」という名文があり、「藝術の分野において博識とは一種の敗北である。博識は、最も繊細ならざるものを照らし出し、些も本質的ならざるものを深めてしまうからである」というのも、観念化した通念を戒める意であろう。
孔子が「学べば則ち固ならず」といっているように、正しい学書は固であってはなるまい。論語子罕篇には孔子が四つのものを絶ったと記されている。それは、意であり、必であり、我であり、固である。憲問篇にも「固を疾む」とあり、〝固〟を嫌う孔子の心が察せられる。
臨済録に「色界に入って色惑を被らず、声界に入って声惑を被らず、香界に入って香惑を被らず、味界に入って味惑を被らず、触界に入って触惑を被らず、法界に入って法惑を被らず」というように、いかなる世界にも自在に出入して、少しも〝惑〟を着けぬことが望まれる。とかく書界に入って書惑を被るのが一般である。たとえば六朝の世界に執して、他の物に盲目となるように。
古人は「眼裏塵あれば三界窄し」と詠じ、また「金屑尊しと雖も眼に落ちては翳を成す」ともいっている。どんな貴重なものでも眼に付いていては見る働きを妨げる障害にほかならぬ。
董其昌は「虚室生白、吉祥止止、われ最もこの語を愛す」といっている。「虚室生白、吉祥止止」とは、「荘子」の〝人間世篇〟に見る語で、心が虚であれば、すべての存在は明白な姿で直覚され、吉祥は虚処にこそ来る、という意である(馬叙倫の「荘子義証」は、「吉祥止止」の下の「止」の字は、「之」に作るべしという奚侗の説を引く)。
荘子はまた、心の齋は、虚になることであり、「唯、道は虚に集る」といい、「耳目に徇って内通し、心知を外にすれば、鬼神もまさに来りやどらんとす」という。固定観念を破り、先入観を去って、虚になり得たとき、対象を正受することができるというわけである。劉武が「虚字すなわち全篇の主脳」というように、荘子は「虚」の一字に重要な意味をこめた。
韓非は、真の虚は、虚をも忘じたところであるとし、「虚に制せられるは、これ虚ならざるなり」といった。佚斎樗山子の「天狗藝術論」に、「その心を虚にすということは、我が心中に一物を置かざるなり。心本虚なれば、別に虚しくすべきものなく、物に応ずるの心また出現し、その出現するものは本虚なり」というのも、制せらるるなき虚のこころを語るものであろう。
荘子は「斉物論」に、王倪という哲人を登場させる。王倪は次のようなことを説く。人間は湿地に寝起きすれば腰痛偏死する。しかし鰌はどうか。湿地でなければ生存し得まい。人間は高い木におれば恐れふるえるだろうが、猿たちにとっては樹上こそ最適な場所であろう。陸地と湿地と、樹上と、何処が正しい居り場所なのか。
人間は動物の肉を食し、鹿は草を食す。むかでは蛇の類を好物とし、トビや鴉は鼠をよろこぶ。ここに食べものを異にする四者を挙げたがそのうち何れが大自然の「正味」を知っているのであろう。
猿は猵狙との交接を喜び、麋は鹿と交り、鰌は魚と共に遊ぶ。毛嬙・麗姫は、人の美とするところだが、魚がこれを見れば深く潜ってしまうであろう。また鳥が見れば高く飛び去り、鹿が見れば遠く疾走するであろう。いったい天下の「正色」とはどれをいうのか、と。 このように荘子の思想は柔軟にして自在であり、およそ固定的観念を打破する力をもって響くのである。